第七十七夜 石橋秀野の「蟬時雨」の句

  蟬時雨子は担送車に追ひつけず  石橋秀野
  
 句意は次のようであろうか。
 
 担送車(ストレッチャー)とは患者を寝かせたままで運ぶ車輪のついたベッドのこと。救急車のストレッチャーに乗せられて病院へ行くときに、五歳の小さな安見子は泣きながら救急車を追いかけた。だが救急車のスピードに敵うわけがない。子に伝染ることを避けなければならない肺結核であり、もしかしたら二度と会えなくなるかもしれない重篤な病の母の悲しさが、季題の「蟬時雨」から、だんだん遠くなる子の泣き声と反対に、蟬の鳴き声が凄まじい音量となって迫ってくる。
   
 この句の自筆は遺されていて、没後、夫の山本健吉の編集で出版された句文集『桜濃く』の扉に、美しい秀野の写真と並んで掲載されている。入院のときに胸に浮かんだものを句帳の無造作に開いたページに青鉛筆で書いたものだという。入院の後は、医師から俳句を禁止されていたため、掲句が絶筆となった。
 「子」は安見子といい、後に、山本安見子著『石橋秀野の一〇〇句を読む 俳句と生涯』が出版されているが、私はその著書を読んではいない。おそらく子である安見子や父山本健吉の心情に触れているのではないかと思いつつも、掲句に惹かれて「千夜千句」で取り上げた。
 
 石橋秀野(いしばし・ひでの)は、明治四十二年(1909)―昭和二十二年(1947)、奈良県の生まれ。若き日、文化学院で短歌を与謝野晶子に、俳句を高浜虚子に学んだ。虚子が客観写生を唱導していた時期である。言葉の美しさと描写の的確さは晶子と虚子の賜物であろう。昭和四年、二十一歳で文芸評論家の山本健吉(本名・石橋貞吉)と結婚。俳句は、石塚友二、石田波郷、中村草田男らの「十日会句会」に参加。
  
 〈蟷螂の地をはえば地に怒りけり〉など、俳句にぶつける激しさは生来の資質もあるだろうが、戦前戦後の生活苦、肺病を得た中での強靭な精神、子を持つ母としても捨身の腹を据えることができたことにもよるのだろう。のちに秀野は、沢木欣一の「風」に「阿呆の一念やむにやまれずひたすらに行ずる」と書いたように句作に全身を傾けた。十七文字の俳句があったことで、生き抜き、俳句の道の厳しさを全うできたとも言える。俳句にはそうした力がある。高浜虚子は「俳句は極楽の文学である」と言った。俳句を詠むことは、生活苦を忘れ、病苦を忘れ、たとえ一瞬でも極楽の境に心を置くことができる、という意味である。
 
 〈短夜の看とり給ふも縁かな〉は夫の山本健吉を詠んだ句。〈裸子をひとり得しのみ礼拝す〉は娘の安見子を詠んだ句。秀野は、死去後、約十年間の句作と随筆他で、第一回茅舎賞を受賞した。 
 次の句は、入院の数日前に詠まれた作で、あらん限りの精魂を傾けた俳句への決別であろう。
 
  火のやうな月の出花火打ち終る  『桜濃く』昭和二十二年