華岡青洲の妻 有吉佐和子
青洲は枕元にあった薬湯を口に含むと、加恵の唇にそれを当て、口移しに解毒剤を飲ませた。少量の甘草で味つけした黒豆の煮汁を、加恵は夢の中で吸うようにして飲み、幾度も幾度も繰返されるうちにようやく、それが夫の唇から注ぎ込まれていることに気付いていた。痺れていた舌が、夫の唇の中で動くと、青洲もまたそれに応えた。茫然としている於継の前で、夫婦の愛は執拗に繰返された。用意されてあったかなり大量の解毒剤を飲み終ると、加恵は満足したように再び昏々と深い眠りに沈んでいった。
妻の脈をとりながら、じっとその様子を見守っていた青洲は顔を挙げると、子供が母親に手柄顔を見せるときと同じように、目を輝かせて於継にいった。
「お母はん、もう大丈夫ですわ。あと一刻も眠ったら、口がきけるようになりましょうかい。ああ、これで一安心や」
しかし於継は応えなかった。彼女は息子の口のまわりがどっぷりと黒豆の煮汁で染まっているのを、怪物の喚(わめ)きを見るように肌に粟(あわ)を覚えながら眺めていた。
(『華岡青洲の妻』新潮社より)
今宵は、「兎」の作品をみてみよう。
■1句目
白兎月に住みしを語り草 鈴木榮子 『蝸牛 新季寄せ』
(しろうさぎ つきにすみしを かたりぐさ) すずき・えいこ
白兎の話は幼い頃から、童話の世界で聞かされたり本で読んだりしていた。日本では神話・伝承の因幡の白兎。イギリスではルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。幼い少女アリスが、白ウサギを追いかけて穴に落ちて不思議な国へ迷い込んだお話である。
どちらの白ウサギも、賢くて、はしっこい。
「月には兎が住んでいるのよ・・」と、聞かされたのは小学生の頃に遊んでくれた近所のお姉さんからであった。怖い話を聞かせてくれるので、帰り道はドキドキしたこともあった。
月は、黄色だが黒っぽい影がある。日本で眺める月の影は、聞かされてきたからなのか確かに兎がいて、餅搗きをしているようでもある。「月に住みしを」が、幼い頃から聞かされてきた通りなのである。
2022年1月18日の月が満月であったが、月齢90%以上の形は6日ほどつづいているので、今宵もまだ月の兎の影は見えるだろう。
■2句目
兎追ふ村中に声満ちにけり 加藤憲曠 『新歳時記』平井照敏編
(うさぎおう むらじゅうに こえみちにけり) かとう・けんこう
兎を捕まえようと、村中の人たちが賑やかに追いかけているのは、「兎鍋」の準備であろう。
もう60年以上も前のこと。猟が好きな父の友人が、「兎鍋をしよう!」と、兎を1羽かかえて訪ねてきたことがあった。母は、「そんなことできません!」と逃げたが、当時70代の、かつて大尉の妻であった祖母が、「かしてごらん!」と、捌いたのであった。母と同じで怖がりやだった私は、覚えていないところをみると、その場から逃げていたのだろう。
加藤憲曠は、大正9年、秋田県の生れ。俳句は昭和14年、庄司瓦全、15年には「ちまき」主宰川村柳月に師事。昭和21年、八戸に復員後、59年「薫風」を創刊主宰。その後、36年「風」に参加、同人。俳人協会評議員、青森県俳句懇話会会長ほか。