第七百九十三夜 石昌子の「久女の忌」の句 1  

 今日、1月21日は杉田久女の忌日である。深見けん二先生を信奉し富安風生の弟子であった、笹目翠風主宰の「礦(あらがね)」誌での二回目の連載のテーマとして「虚子と散文」の世界を試みた。その第3章に「国子の手紙」を読む、があり、1章は杉田久女の手紙、2章は久女のホトトギス除名を探る、と章立てをして、「国子の手紙」を読む、という一文を書いた。
 
 今宵の「千夜千句」は、「久女忌」なので、当時書いたものを、長文だが、2度と同じものは書けそうにないので、そのまま転載させて頂きたいと思う。2回に分けて紹介しよう。

 「国子の手紙」を読む
 
1章 杉田久女の手紙

 数年前に私は、久女の墓へ一度詣りたいと思い立って、久女が分骨され、虚子が墓碑銘を書いた墓のある城山墓地を訪れた。田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる…わが愛の杉田久女』の墓所を訪ねる場面を思い出しながら探したが、やはり私たちも迷いに迷って、やっと小さな立て札を見つけて、辿り着くことができた。
 赤堀家の墓所は、樹々に囲まれた陽の当たる斜面にある。四基並んだ一番奥が久女の墓で、枯れかかっているが供花が置かれていた。小振りの黒御影石の墓の「久女の墓」と刻まれた虚子の文字を眺めながら、秋の日射しの中で私たちは暫く佇んでいた。
 
 ●手紙発表のいきさつ
 
 小説「国子の手紙」は、昭和23年12月号の雑誌「文体」に発表された。虚子は創作であると言っているが、明らかに国子は久女である。
 「国子の手紙」を一読すると、句集の序文が得られないことに苛立って虚子への愛憎を露わに認めた国子(久女)の230通余りの束の中から、虚子が選んだ19通が日付順に並べられてあるだけのようにも見える。
 手紙の断片を紹介しながら、当時の背景となっている久女の心の動きや「ホトトギス」と虚子のことなど、久女と長女・石昌子の実名で見てゆこう。
 
 《ここに国子といふ女があつた。その女は沢山の手紙を残して死んだ。その手紙は昭和9から14年まで6年間に230通に達してゐる。私は人の手紙を見てしまふと屑籠に投ずるのが普通であるが、ふとこの人はをかしいなと思ひはじめてから、その手紙を机の抽斗に投げ込んで置いた。》
 
 本書の書き出しの虚子の言葉だが、まず注目すべきは、昭和9年から極端に増えたという手紙の量である。
 次は、娘の昌子から母の死を報じた虚子への手紙が置かれている。
 「1月21日午前1時30分保養院にて只一人母は永眠致しました。」
 「10年あまりひどい憂鬱症とヒステリー、精神分裂の状態でありました。悖徳(はいとく)と申しますか先生はじめ多くの方々に憎しみを持ち、又自分も憎しみを買ひながら生きてをりました。」
 「唯一つ先生に、先生と仰ぎ俳句だけで生きてゐた母に一掬の涙を注いで頂けましたなら、亡母も行くところへ行けるかと存ずるのであります。」
 
  思ひ出し悼む心や露滋し  虚子
 
 虚子はその後、昌子へ久女に対するこの追悼句を送り、さらに虚子は、久女の手紙の公開を昌子に問い、その昌子の承諾の手紙を「ホトトギス」へ載せた。当時若かった昌子が、俳句界の大御所である高浜虚子の提案に反対などできる筈はなかった。
 こうして娘の昌子から、虚子に対する詫びと手紙発表の了解の言質を得た上で、虚子は「国子の手紙」に19通の久女の手紙を並べた。
 
 ●俳景にあるもの
 
 手紙 1
 「句集『月光』が万一出版の運びになりますなら、私は序文をいただくか、序文を頂けずとも、せめて題目”月光”といふ字だけは御染筆願ひたいと思ひます。私の月光を浴びつつ育つてゆく心持を、自序の中に認めて、御師たる先生へ捧げる小さい句集を作りたく存じます。」
 
 大正5年に兄の赤堀月蟾(渡辺水巴門下)の手ほどきを受けた久女は、当時虚子が推進していたホトトギスの女流俳人の中でも急速に力を付け名を上げていた。
 
  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ   大正8年
  足袋つぐやノラともならず教師妻  大正11年
 
 そして久女は、昭和6年「谺して山ほととぎすほしいまゝ」の作品で帝国風景院賞金賞を受賞、7年には女性だけの俳誌「花衣」を創刊主宰したが、5号で廃刊となる。
 昭和7年、8年、9年には続けて巻頭になっている。
 
  灌沐の浄法身を拝しける  昭和7年7月号
  雉子なくや宇佐の磐境禰宜独り  昭和8年7月号
  雪颪す帆柱山冥し官舎訪ふ  昭和9年5月号
 
 昭和9年、中村汀女や竹下しづの女らと共にホトトギス同人となり、俳人として固めた久女は、次に虚子の序文というお墨付きの句集を強く願ったのだった。
 「先生の偉大な包容力は多くの女流を包容し、先生の愛の御手は八方へ伸びて多くの女流を御手のうちに押へて御出のことを考へますと、急に私の心は冷たくなり、つい我儘にも氷のような冷たさで先生に御対し申し上げたくなります。
 大名の猫も、花の置炬燵も、菊の花、浪速の花、宮城野の萩も、鳩も、何もかも先生にはなくてはならぬ多年御愛蔵の品々でございませう。」
 
 大正2年に虚子が長谷川かな女に声をかけて始まった女性俳句は、「婦人十句集」「婦人俳句会」「台所雑詠」「雑詠欄」という過程を踏み、昭和初期には、男性俳人と共に女流俳人もホトトギス第二次黄金期を築き上げていた。
 久女がこれほどに妬み羨んだ相手とは、一体誰だろうか。
 星野立子は虚子の次女で、昭和5年に女性初の俳誌「玉藻」主宰者となっている。中村汀女は、九州にいるときに久女が俳句の道をつけた人だが、今や虚子や立子と句会を共にするようになっている。橋本多佳子は、大阪に移転してからは山口誓子と行動を共にして活躍し始めている。かな女は、大正10年には夫・長谷川零余子の主宰誌「枯野」に参加して、その頃はホトトギスを離れていた。男爵夫人の本田あふひは、虚子の能楽仲間でもあり、面倒見がよく、沢山ある虚子の句会の世話人をしている。
 昭和5年から始まった吟行句会「武蔵野探勝」の模様は、毎回、「ホトトギス」に華やかな句会報が載っている。遠い九州に住む久女は、虚子が参加して多くの女流俳人が切磋琢磨している句会に参加することは叶わない。どこか置いてきぼりの気持ちが、こうした久女の妬みの文面になったのであろう。
 「大名の猫」だの「宮城野の萩」だの、明らかに女流俳人を指しいるが、誰と特定できたらと思うほど愉快な命名である。
 
 電報
 「ケフカギ リセンセイノシツカヲシリゾク タネンノゴコウオンカンシヤニタエズ ツツシミテオンレイモウシアゲマスクニコ」
 〈今日限り先生の膝下を退く。多年の御高恩感謝に堪へず。謹みて御礼申上げます。国子〉
 
 こんな文面の電報がくるかと思うと、久女から追いかけるように平謝りの手紙が届く。
 
 手紙 5
 「先生、私は昔からS様の句が大好きでございました。今も好きです又S様も好きです。」
 「しかし又芸の上の迎合で私は一個の女性としてS氏の純情と、S氏の俳句は、筒井筒振分髪の幼い恋のよう一生これは忘れることは出来ませぬ。」
 
 S氏は水原秋桜子であるというのが通説であり、秋桜子、誓子、素十、青畝の「四S」俳人の中で新鮮な抒情を詠いあげる秋桜子の作品が久女は好きだった。二人とも万葉集に惹かれ、万葉の言葉を駆使した作品を詠んでいる。
 昭和6年、秋桜子は虚子との俳句観の相違からホトトギスを離れ、主宰誌「馬酔木」はのちに新興俳句の拠点となった。
 久女は、新興俳句の重鎮となった秋桜子や吉岡禅寺洞や日野草城たちとも古い交流があり、随分と誘われていたようだが、久女は、手紙を送り始めた昭和9年の頃も昭和11年に「ホトトギス同人除名」となって以降も、新興俳句陣営へ移ることはなかった。
 
 手紙 9
 「先生が門下として重きを置いて下さるといふのは私の大きな己惚れであつたことを知り、私は唯阿波の内侍の如く建礼門院の侍女であつたことに漸く目覚め、やはり雑草のつゝましやかな境界であることを悟りました。」
 
 久女の使う比喩の自在さには、思わず引き込まれそうになる。建礼門院は、平清盛の娘で、高倉天皇の中宮であり安徳天皇の母である。阿波の内侍は、建礼門院に仕えた侍女のこと。久女は自らを、権力を持った建礼門院にはなれず、侍女の一人にすぎない境界であったと述べたのである。境界は仏教用語で、ほぼ境涯と同じ意味である。
 
 手紙 15
 「先生は老獪な王様ではありませうが、芸術の神様ではありませぬ。私は久遠の芸術の神へ額づきます。」
 
 虚子の一面は、まさに巨大な俳句結社「ホトトギス」の頂点に君臨する「老獪な王様」とも言えよう。それを見抜いた久女の鋭さ、言ってのけた久女の勇気に感服する。
 
 手紙 16
 「寧ろ明石の上の気稟、橘一枝を折り挿したやうな、明石の上の才学、源氏の君の第一の寵を鍾めた紫の上さへ、尚一目も二目も置き、源氏の愛をかち得た明石の上は、わたしのやうな女性ではなかったかと思います。」
 
 明石の上は、父の明石の入道により様々な教養を身に着けた女性で、須磨に退去していた光源氏に愛され、娘を生んで国母となった人である。久女は、自らを明石の上にも例えるほどの誇りと自信を持っていた。
 
 手紙 19
 「俳句の上では私は何処までも日本一。日本一の国子であります。国子は日本一の旗じるしが欲しいのでございます。」
 
 《なまじ、序文などよりも此手紙を添付してはどうかと考へるのである。これだけの手紙ならば……云々》(虚子の文)
 
 ●久女の文章力
 
 私は、最初に「国子の手紙」を読み、次に『杉田久女句集』の序文を読んでいったが、その時、これでは久女が狂気の人だと印象づけられるのではないかと思った。昭和11年の草城、禅寺洞、久女のホトトギス同人削除事件では、草城、禅寺洞の二人は無季俳句に走ったことが除名の理由であったが、久女だけが明確な除名理由がわからず仕舞いであった。もしかしたら、虚子はこの「国子の手紙」を、除名事件を納得させるための俳句界的な計らいに利用したのではないかと思い、ふと、私は久女側に与したくなったほどだ。
 しかし、文中の《これだけの手紙ならば》という、虚子の素朴な言葉に目が止まったとき、私はハッとした。
 230通もの手紙を破棄しなかったのは、不可解で無礼な手紙も含めて、じつに痛快なほど豊かな久女の文章力に、虚子は惹かれるものを感じていたからではないだろうか、と。
 
 「写生文とは、事実を偽らずに書きはするが、書くべき事実と書かないでいい事実とを取り分けるのは私の心である。」
 
 これは、虚子が「虹」を書いた折の言葉である。小説「国子の手紙」として発表しなければ、勿論、秘められたままとなる内容の手紙となるはずだが、虚子の小説家魂がむっくり擡げ、発表したい誘惑に駆られたのではないだろうか。
 一方で実在する人物を小説にすることは怖ろしい一面があり、「国子の手紙」にも、同じく久女を主人公とした松本清張の「菊枕」にも、文章による腕力のようなものを感じた。
 

■娘・石昌子の「久女の忌」

  大寒に入る日は晴れて久女の忌  石 昌子
 (だいかんに いるひははれて ひさじょのき) いし・まさこ

 「久女の忌」の句は、杉田久女の激しさが目立つからであろう、そういった作品が多いように感じた。娘の石昌子は、子どもの頃から、俳句に一途にのめり込んでいる母の姿を見てきていた。俳句を作るときは、身支度を整えて、机に向かっていたという。
 
 また、虚子との齟齬から疎まれるようになり、近くに住む橋本多佳子にも優しく包むような長谷川かな女とも、心を上手く開くことができなかった。その様子を間近に見、結婚後も何かと母を心配してきた昌子であった。
 
 久女が狂って死んだのち、母の『杉田久女句集』を作り、『「最後の久女」杉田久女影印資料集成』を作った。
 
 母思いの石昌子の「久女の忌」の作品に、寒中の1月21日は、2022年の今年も、深々とした寒さの中の、冬晴れの透き通るような青空と冬日の鋭い光線を見る思いであった。
 「大寒に入る日は晴れて」を心から嬉しく思って、昌子は、母久女の忌を修している。