第七百九十四夜 黛まどかの「久女忌」の句 2

第七百九十四夜 黛まどかの「久女忌」の句 2

 2章 久女のホトトギス除名を探る
 
 杉田久女は、昭和11年10月号の「ホトトギス」誌上において、日野草城、吉岡禅寺洞とともに同人を突然に除籍された。
 この決定は前もって知らされることはなかったが、たとえば草城は、届いたホトトギスをのんびり読んでいて、30頁目を捲ったとき初めて知ったという。草城は「俳句新聞」に当時の気持ちを次のように述べている。
 「正直のところはつとした。豫て期するところではあつたが、さてその場に臨んでは、やはりどきつとした。一抹の寂寥、そして無限の感慨。」(「感慨──ホトトギス同人の籍を除かれしに際して──」より)
 
 草城と禅寺洞は、無季俳句を詠んでいたことが除名の理由だと言われるが、久女の場合は、周囲の俳人たちも納得するような明確な理由を特定できなかった。
 久女が「除名」の事実をどう受け止めたか、草城のような文章が久女自身には残されていないので、いよいよ謎は深まった。
 いくつか考えてみよう。
 
■『「最後の久女」杉田久女影印資料集成』
 
 数年前に「鑛」誌の連載「虚子をめぐる俳人たち」で久女を書いた折に、私は古書店から『「最後の久女」杉田久女影印資料集成』を入手していた。資料にある昭和16年の久女ノートには、14年以降、久女が俳句の筆を折ったといわれる頃の日記と俳句が書かれていたが、その時の私は、このノートを資料として使うことはできないと思った。
 一つは、久女の筆は達筆過ぎて読み難いことで、編者の石昌子が判読してある部分も内容が理解し難かったことである。
 もう一つは、ノートの一部だけ抜粋すれば、それこそ、久女の狂女伝説を濯ぎたいという石昌子の意に反して、久女はやはりおかしい? となってしまいそうだったからであった。
 しかし今回、そうか、と思う個所があった。
 
 虚子は、「国子の手紙」の中で《尚ほ十年以後十四年迄に二百ばかり来てをる。其の中には唯墨を塗ったものや……》と書き、昭和27年度版『杉田久女句集』の虚子の序文では「送ってきた句稿を見ると句集の体をなさず只乱雑に書き散らしたものだった」とも書いていたのだ。
 
 久女の資料の昭和16年のノートには、虚子や俳壇や当時の女流俳人の悪口や久女自身の自信過剰の、次のような言葉が散見できる。
 「自分の全生涯の作品は珠玉の如くまだ現はさぬ作品の多さ質料ともに優れ秀吟の多いのにはわれ乍らおどろいた。句集十冊位は出版しても面白い。」
 「自分の未発表の句を見せてやったら秋桜子だの茅舎誓子だのいろいろな作品は到底この一冊の手帳だって彼らは絶対に久女をおしのける事も凌駕することも出来ないという自信をえた。」
 
 誰にも見せないことが前提の日記とは言え、こうまで激しく口汚く罵れるものかと思う個所もあったし、また勿論、虚子が指摘したように墨で消した部分もあった。
 おそらく、14年までに久女が虚子へ送った手紙にも同じように墨で消した部分があったのだろう。能筆な崩し文字は、久女の苦悩と怒りが勢いづいて益々読み難かったと思われるし、虚子からすれば、見苦しく感じたことは想像できる。
 一方、『杉田久女句集』で虚子が書いた序文の「送ってきた句稿は乱雑に書き散らし」の個所は事実ではない。
 実際は、虚子が「久女が昭和14年に巻紙に認めた毛筆の句稿ではなかった。」というのは少し違う。石昌子は、当時の郵便事情等から紛失の懸念をしたことと、句と句の間には見られたくないような久女のメモがあったため、昌子自身が全句を清書し直した句稿を虚子に渡していたのだった。
 だから虚子の「乱雑に書き散らした」という言葉は正確でなく、ここにも、ある意図をもつ虚子を感じる。
 
■「ホトトギス」から切り離された久女
 
 ここにもと言ったのは、久女の死を石昌子から知らされた直後の昭和21年11月号の「ホトトギス」に載せた虚子の「墓に詣り度いと思つてをる」の一文にも、久女を狂ったとする、虚子の意図が感じられたからだ。
 「久女さんの俳句は天才的であって」「其れが遂には常軌を逸するやうになり、所謂手がつけられぬ人になって来た」に続き、虚子は昭和十一年のフランスに旅行する箱根丸が行路と帰路に門司に立ち寄った際の久女の異様な姿を書いている。この頃は、久女の手紙は虚子を煩わせていたから、側近の門弟が虚子と久女を会わせまいとしたことも想像できるが、後の検証では、文中のような奇行はなかったという。
 さらに、帰路に再び門司に立ち寄ったという事実は虚子の『渡仏日記』にもなく、なぜ虚子が帰路のことを書いたのか謎はさらに深まる。
 しかも虚子の「墓に詣り度いと思つてをる」の一文には、虚子へ激しい執念を燃やす母久女に、昌子が子として辟易していたことも書いていた。さらに当時まだ若い石昌子の手紙をホトトギスに掲載したことなども、「困った久女像」を加速させた。実際、虚子にとっても「ホトトギス」にとっても困った久女ではあったろうが、それだけでは久女の同人除名の理由とはならないだろう。
 
 俳句は文芸ではあるが、「ホトトギス」という巨大組織を維持するために、虚子の考える経営方針──外れる者は排斥する──を、虚子はこれまでも貫いてきたと言える。
 虚子が、河東碧梧桐の新傾向俳句と戦った際には完膚無きまで追いつめた感があった。水原秋桜子との写生観の相違でもそうだった。日野草城の場合もそうだった。
 虚子は、自ら決めたことは貫き通す、絶対に負けない、という強い信念の人のように思われる。
 戦前の無季俳句、新興俳句、戦後の様々の俳句観には表立った論争はしなかった。というのは、この時の虚子はもう自らの提唱した「花鳥諷詠」「客観写生」への信念に一切の揺らぎはなかった。
 こうした「ホトトギス」の主宰者虚子に対して、「国子の手紙」の中にある久女の挑戦的な言葉は、正に逆効果であった。
 
 手紙一
 「私の文章を余りお削り下さることは私の性格として非常に不愉快に思います。私は先生と反対の立場の人々とも親しみ、全国的に多くの知己もありますから、色々な話を絶えず耳にします。」
 ホトトギス王国の頂点にいる虚子に対して、自分には秋桜子などホトトギス以外の味方もいることを匂わしたりするなど、久女は驚くほど高圧的だ。
 
 手紙七
 「何卒私の提出する俳句を御採用くださいませ。万一私を見放そうとならば、お捨てくださいませ。」
 主宰者として選を一番大切に考えている虚子に対して、久女の文章はじつに無礼で僭越な言葉だ。
 
 手紙十五
 「先生は老獪な王様ではありませうが、芸術の神様ではありませぬ。私は久遠の芸術の神様へ額づきます。」
 久女は、芸大出の夫に望んでも得られなかった芸術を、自らの手で、俳句で芸術の域に達したいと願っていた。明治の良妻賢母教育を受けた久女は、家庭と両立しながら可能な限り勉強を怠らなかった。
 ホトトギスで巻頭作家となり同人となり、次に願ったことが芸術家への階段を上るための句集刊行であった。
 序文を書いて欲しいという願いを冷たく黙殺し続ける虚子の真意がどうしても掴むことのできない久女は、苛立ちを募らせた。一方虚子は、久女にほとほと手を焼いたと思われる。
 
 久女の手紙を読んだ虚子は、かつての俳句観の相違の場合と同じように、久女を切り離さそう、という考えに至ったに違いない。
 一、虚子にとって煩くつきまとう女性となったこと
 一、無季俳句、新興俳句陣営と交流があること
 一、ホトトギスの女流俳人の輪を乱す存在となったこと
 これらの理由に加えて、虚子の提唱する俳句の女流のトップの座は娘の星野立子である、と考えていたこともあろうか。そして、後に中村草田男が「久女の代わりに汀女が立子のご学友に選ばれたのです」と昌子に告げたように、力をつけてきた中村汀女を虚子は重用しはじめた。
 ホトトギス女流陣確立の重要な時期である今は、虚子は久女の懇願する句集の序文を書くことを諒承することはできなかった。
 久女は、虚子の意図する俳句界から外れてしまっていたのだ。
 
 冒頭に引用した日野草城の「感慨──ホトトギス同人の籍を除かれしに際して──」の一文は、次のように続いている。
 「花鳥諷詠は一つの格である。既に格に入り、而して既に格をいづ。僕は十九年住みなれたホトトギスを立出で、寂しくも悠々たる心境に處してゐる。」
 芭蕉の「格に入て格を出ざる時は狭く、又格に入らざる時は邪にはしる。格に入、格に出てはじめて自在を得べし。」を草城は援用し、虚子から基本を学んだ今は、基本を抜け出て自己のオリジナリティーを求めると言ったのだ。
 
 虚子は、久女もまた草城の道のように、秋桜子の「馬酔木」か他の新興俳句の結社に馳せ参ずるだろうと思っていた。
 だが久女は昭和十一年、次の詞書のある作品をホトトギスに投句した。
 
     ユダともならず
  春やむかしむらさきあせぬ袷見よ  久女
 
 これは除名後の作品であり、最後の晩餐でキリストを裏切った使徒ユダの名を入れて、久女は裏切ることはない、との思いを句に籠めたものである。
 「足袋つぐやノラともならず教師妻」では、イプセンの戯曲の「ノラ」という新鮮な語を句に入れたことで、久女は時代の先頭を切る女性だと思われ勝ちだが、じつは「ノラともならず」が、明治時代の日本女性の本質を抜けきれなかった久女そのものであった。もしも久女が、小説「虹」に登場する森田愛子のように心から虚子を崇める行動をとることができていたら、この結末にはならなかったであろう。
 
 一連の手紙は、誇り高い久女の反語であったかもしれない。
 久女は虚子を絶対的な俳句の本尊のように思っていたからこそ、自分に冷たく当たる虚子へ恨みを述べ、秋桜子などの存在を匂わせて気を惹く言い方をしたに違いない。
 久女は熱い北風のような人であったと、私は今そんな風に思っている。

 今宵は、黛まどかの「久女忌」の作品をみてみよう。


  久女忌の空に瑕瑾のなかりけり  黛 まどか 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (ひさじょきの そらにかきんの なかりけり) まゆずみ・まどか

 大寒の最中の1月21日は杉田久女の命日である。明日の第七百九十六夜では、久女が亡くなった時の病名に触れようと思う。
 コロナ禍の中で、この冬は、よく庭先に椅子を出して、犬を侍らせて日向ぼっこをしている。太陽光線はするどく額を直撃してくるが、じっと眺めていると、光はゆらゆらしているのがわかる。

 作品に詠み込まれた「瑕瑾」とは、「瑕」はきずのことで「瑾」は美しい玉のことである。美しい宝玉についてしまった僅かな疵のことである。久女忌の頃の空というのは、青よりも深く、傷ひとつない碧色をを延べたような空でしたよ、と黛まどかさんは詠んでいる。 2章 久女のホトトギス除名を探る
 
 杉田久女は、昭和11年10月号の「ホトトギス」誌上において、日野草城、吉岡禅寺洞とともに同人を突然に除籍された。
 この決定は前もって知らされることはなかったが、たとえば草城は、届いたホトトギスをのんびり読んでいて、30頁目を捲ったとき初めて知ったという。草城は「俳句新聞」に当時の気持ちを次のように述べている。
 「正直のところはつとした。豫て期するところではあつたが、さてその場に臨んでは、やはりどきつとした。一抹の寂寥、そして無限の感慨。」(「感慨──ホトトギス同人の籍を除かれしに際して──」より)
 
 草城と禅寺洞は、無季俳句を詠んでいたことが除名の理由だと言われるが、久女の場合は、周囲の俳人たちも納得するような明確な理由を特定できなかった。
 久女が「除名」の事実をどう受け止めたか、草城のような文章が久女自身には残されていないので、いよいよ謎は深まった。
 いくつか考えてみよう。
 
 ■『「最後の久女」杉田久女影印資料集成』
 
 数年前に「鑛」誌の連載「虚子をめぐる俳人たち」で久女を書いた折に、私は古書店から『「最後の久女」杉田久女影印資料集成』を入手していた。資料にある昭和16年の久女ノートには、14年以降、久女が俳句の筆を折ったといわれる頃の日記と俳句が書かれていたが、その時の私は、このノートを資料として使うことはできないと思った。
 一つは、久女の筆は達筆過ぎて読み難いことで、編者の石昌子が判読してある部分も内容が理解し難かったことである。
 もう一つは、ノートの一部だけ抜粋すれば、それこそ、久女の狂女伝説を濯ぎたいという石昌子の意に反して、久女はやはりおかしい? となってしまいそうだったからであった。
 しかし今回、そうか、と思う個所があった。
 
 虚子は、「国子の手紙」の中で《尚ほ十年以後十四年迄に二百ばかり来てをる。其の中には唯墨を塗ったものや……》と書き、昭和27年度版『杉田久女句集』の虚子の序文では「送ってきた句稿を見ると句集の体をなさず只乱雑に書き散らしたものだった」とも書いていたのだ。
 
 久女の資料の昭和16年のノートには、虚子や俳壇や当時の女流俳人の悪口や久女自身の自信過剰の、次のような言葉が散見できる。
 「自分の全生涯の作品は珠玉の如くまだ現はさぬ作品の多さ質料ともに優れ秀吟の多いのにはわれ乍らおどろいた。句集十冊位は出版しても面白い。」
 「自分の未発表の句を見せてやったら秋桜子だの茅舎誓子だのいろいろな作品は到底この一冊の手帳だって彼らは絶対に久女をおしのける事も凌駕することも出来ないという自信をえた。」
 
 誰にも見せないことが前提の日記とは言え、こうまで激しく口汚く罵れるものかと思う個所もあったし、また勿論、虚子が指摘したように墨で消した部分もあった。
 おそらく、14年までに久女が虚子へ送った手紙にも同じように墨で消した部分があったのだろう。能筆な崩し文字は、久女の苦悩と怒りが勢いづいて益々読み難かったと思われるし、虚子からすれば、見苦しく感じたことは想像できる。
 一方、『杉田久女句集』で虚子が書いた序文の「送ってきた句稿は乱雑に書き散らし」の個所は事実ではない。
 実際は、虚子が「久女が昭和14年に巻紙に認めた毛筆の句稿ではなかった。」というのは少し違う。石昌子は、当時の郵便事情等から紛失の懸念をしたことと、句と句の間には見られたくないような久女のメモがあったため、昌子自身が全句を清書し直した句稿を虚子に渡していたのだった。
 だから虚子の「乱雑に書き散らした」という言葉は正確でなく、ここにも、ある意図をもつ虚子を感じる。
 
 ■「ホトトギス」から切り離された久女
 
 ここにもと言ったのは、久女の死を石昌子から知らされた直後の昭和21年11月号の「ホトトギス」に載せた虚子の「墓に詣り度いと思つてをる」の一文にも、久女を狂ったとする、虚子の意図が感じられたからだ。
 「久女さんの俳句は天才的であって」「其れが遂には常軌を逸するやうになり、所謂手がつけられぬ人になって来た」に続き、虚子は昭和十一年のフランスに旅行する箱根丸が行路と帰路に門司に立ち寄った際の久女の異様な姿を書いている。この頃は、久女の手紙は虚子を煩わせていたから、側近の門弟が虚子と久女を会わせまいとしたことも想像できるが、後の検証では、文中のような奇行はなかったという。
 さらに、帰路に再び門司に立ち寄ったという事実は虚子の『渡仏日記』にもなく、なぜ虚子が帰路のことを書いたのか謎はさらに深まる。
 しかも虚子の「墓に詣り度いと思つてをる」の一文には、虚子へ激しい執念を燃やす母久女に、昌子が子として辟易していたことも書いていた。さらに当時まだ若い石昌子の手紙をホトトギスに掲載したことなども、「困った久女像」を加速させた。実際、虚子にとっても「ホトトギス」にとっても困った久女ではあったろうが、それだけでは久女の同人除名の理由とはならないだろう。
 
 俳句は文芸ではあるが、「ホトトギス」という巨大組織を維持するために、虚子の考える経営方針──外れる者は排斥する──を、虚子はこれまでも貫いてきたと言える。
 虚子が、河東碧梧桐の新傾向俳句と戦った際には完膚無きまで追いつめた感があった。水原秋桜子との写生観の相違でもそうだった。日野草城の場合もそうだった。
 虚子は、自ら決めたことは貫き通す、絶対に負けない、という強い信念の人のように思われる。
 戦前の無季俳句、新興俳句、戦後の様々の俳句観には表立った論争はしなかった。というのは、この時の虚子はもう自らの提唱した「花鳥諷詠」「客観写生」への信念に一切の揺らぎはなかった。
 こうした「ホトトギス」の主宰者虚子に対して、「国子の手紙」の中にある久女の挑戦的な言葉は、正に逆効果であった。
 
 手紙一
 「私の文章を余りお削り下さることは私の性格として非常に不愉快に思います。私は先生と反対の立場の人々とも親しみ、全国的に多くの知己もありますから、色々な話を絶えず耳にします。」
 ホトトギス王国の頂点にいる虚子に対して、自分には秋桜子などホトトギス以外の味方もいることを匂わしたりするなど、久女は驚くほど高圧的だ。
 
 手紙七
 「何卒私の提出する俳句を御採用くださいませ。万一私を見放そうとならば、お捨てくださいませ。」
 主宰者として選を一番大切に考えている虚子に対して、久女の文章はじつに無礼で僭越な言葉だ。
 
 手紙十五
 「先生は老獪な王様ではありませうが、芸術の神様ではありませぬ。私は久遠の芸術の神様へ額づきます。」
 久女は、芸大出の夫に望んでも得られなかった芸術を、自らの手で、俳句で芸術の域に達したいと願っていた。明治の良妻賢母教育を受けた久女は、家庭と両立しながら可能な限り勉強を怠らなかった。
 ホトトギスで巻頭作家となり同人となり、次に願ったことが芸術家への階段を上るための句集刊行であった。
 序文を書いて欲しいという願いを冷たく黙殺し続ける虚子の真意がどうしても掴むことのできない久女は、苛立ちを募らせた。一方虚子は、久女にほとほと手を焼いたと思われる。
 
 久女の手紙を読んだ虚子は、かつての俳句観の相違の場合と同じように、久女を切り離さそう、という考えに至ったに違いない。
 一、虚子にとって煩くつきまとう女性となったこと
 一、無季俳句、新興俳句陣営と交流があること
 一、ホトトギスの女流俳人の輪を乱す存在となったこと
 これらの理由に加えて、虚子の提唱する俳句の女流のトップの座は娘の星野立子である、と考えていたこともあろうか。そして、後に中村草田男が「久女の代わりに汀女が立子のご学友に選ばれたのです」と昌子に告げたように、力をつけてきた中村汀女を虚子は重用しはじめた。
 ホトトギス女流陣確立の重要な時期である今は、虚子は久女の懇願する句集の序文を書くことを諒承することはできなかった。
 久女は、虚子の意図する俳句界から外れてしまっていたのだ。
 
 冒頭に引用した日野草城の「感慨──ホトトギス同人の籍を除かれしに際して──」の一文は、次のように続いている。
 「花鳥諷詠は一つの格である。既に格に入り、而して既に格をいづ。僕は十九年住みなれたホトトギスを立出で、寂しくも悠々たる心境に處してゐる。」
 芭蕉の「格に入て格を出ざる時は狭く、又格に入らざる時は邪にはしる。格に入、格に出てはじめて自在を得べし。」を草城は援用し、虚子から基本を学んだ今は、基本を抜け出て自己のオリジナリティーを求めると言ったのだ。
 
 虚子は、久女もまた草城の道のように、秋桜子の「馬酔木」か他の新興俳句の結社に馳せ参ずるだろうと思っていた。
 だが久女は昭和十一年、次の詞書のある作品をホトトギスに投句した。
 
     ユダともならず
  春やむかしむらさきあせぬ袷見よ  久女
 
 これは除名後の作品であり、最後の晩餐でキリストを裏切った使徒ユダの名を入れて、久女は裏切ることはない、との思いを句に籠めたものである。
 「足袋つぐやノラともならず教師妻」では、イプセンの戯曲の「ノラ」という新鮮な語を句に入れたことで、久女は時代の先頭を切る女性だと思われ勝ちだが、じつは「ノラともならず」が、明治時代の日本女性の本質を抜けきれなかった久女そのものであった。もしも久女が、小説「虹」に登場する森田愛子のように心から虚子を崇める行動をとることができていたら、この結末にはならなかったであろう。
 
 一連の手紙は、誇り高い久女の反語であったかもしれない。
 久女は虚子を絶対的な俳句の本尊のように思っていたからこそ、自分に冷たく当たる虚子へ恨みを述べ、秋桜子などの存在を匂わせて気を惹く言い方をしたに違いない。
 久女は熱い北風のような人であったと、私は今そんな風に思っている。

 今宵は、黛まどかの「久女忌」の作品をみてみよう。


  久女忌の空に瑕瑾のなかりけり  黛 まどか 『』
 (ひさじょきの そらにかきんの なかりけり) まゆずみ・まどか

 大寒の1月21日は杉田久女の命日である。明日の第七百九十六夜では、久女が亡くなった時の病名に触れようと思う。
 コロナ禍の中の私は、この冬、よく庭先に椅子を出して、犬を侍らせて日向ぼっこをしている。太陽光線はするどく額を直撃してくるが、じっと眺めていると、光はゆらゆらしている。

 作品に詠み込まれた「瑕瑾」とは、「瑕」はきずのことで「瑾」は美しい玉のことで、美しい宝玉についてしまった僅かな疵のことである。久女忌の頃の空というのは、青よりも深く、傷ひとつない碧色を延べたような美しい空でしたよ、と黛まどかさんは詠んでいる。