第七百九十五夜 朔多恭の「久女忌」の句 3 

 3章 杉田久女の病名を探る
 
 今、私の手元に病跡学の資料がある。精神科医柏瀬宏隆著『鬱力(うつりょく)』(集英社刊)の編集に関わった経緯から、資料とした「日本病跡学雑誌」の論文のコピーの山にあったのは、精神神経科医の大森健一著の「俳人杉田久女の病跡」(昭和四九年)と、心理学者の小西聖子、佐藤親次、小田晋共著「女流俳人 杉田久女の病跡」(平成四年)である。
 精神医学的な専門知識は勿論私にはないが、「ストレス」とか「うつ」などの言葉は現代では日常よく耳にしているし、ストレスは、生きていく上で多少なり誰にもある症状だ。そして、このストレスが過度になると「うつ」という病気や他の心身症を引き起こすといわれている。
 病跡学=パトグラフィーというのは、すぐれた業績や作品を残した人の精神状態を探り、「天才と病理」の関係を探ろうとする学問のことである。
 『鬱力』のプロローグで著者の柏瀬宏隆氏は、フランスの精神科医ジャン・ドレーの「神経症的葛藤と矛盾に悩むことが、芸術創造の契機となる」の言葉を挙げ、人は、挫折やコンプレックスを抱えながら、乗り越えようとする時に〈いい仕事〉をしているという。たとえば、詩人の金子みすゞは抑うつ反応、萩原朔太郎は神経症、小説家の三島由紀夫は分裂気質と自己愛性人格障害、ゴッホはてんかん気質の心身症と葛藤しながら作品を得たのだと述べている。
 
 本編のシリーズタイトル「虚子と散文」からは少し外れるかもしれないが、「国子の手紙」の奥を探りたいと思ったとき、本当に久女は狂っていたのか、という問題を知りたくなった。これまで書いたことと重複の部分もあるかもしれないが、虚子が久女の行動に「常軌を逸した」と感じた、その元となったストレス要因をいくつか取り出してみる。
 
■久女を苦しめたストレス
 
 1・夫との軋轢
 
 お茶の水出身の久女が美術学校出身の宇内と結婚したのは、芸術に携はる人と一生を共にしたいと思ったからであったが、夫の宇内は、久女の唯一の念願を充たしてはくれず、一図画教師の仕事に没頭するばかりで絵を描くこともせず、休日には釣りに出かけ、久女の作る西洋料理の夕飯を楽しみにしている日々を過ごした。久女は小市民的に満足している夫を宇内に求めたのではなかった。貧乏は怖くないし教師の妻が不満というわけではないが、夢のないことがイヤで、夫には芸術家の夢を追いかけて欲しかったのだ。
 
  獺にもとられず小鮎釣り来し夫をかし
  六つなるは父の布団にねせてけり
 
 この句のように、穏やかな家庭の時代も久女夫妻にあったのだ。
 
 2・俳句と子育ての両立の矛盾
 
 俳句に夢中で夫や子どもの世話もしない悪女のように言われることもあるが、久女は婦人教育をしっかり受けていた。実際は久女はとても子煩悩で、2人の娘を大学まで出している。
 次女の光子が生まれた直後の大正5年、久女は兄の月蟾に手ほどきを受け、忽ち、「ホトトギス」の台所雑詠や雑詠欄に載るほどとなり、女流俳句の先頭を切る一人となった。此処までの俳人になるには、相当な努力と時間を使ったと思われ、夫からは文句を言われどおしで、ついに腎臓病を患って東京で療養することになった。石昌子が言うには、宇内は一旦怒り出すと兎に角ねちねちと久女を責め続けたそうで、離婚問題まで出たが、子どものために踏み留まった。大正12年頃から大正末期まで、久女は俳句から離れていた。
 「それほど好きな俳句をやめてかく迄不熱心になるのはどういふ理由だったかといふと、あまり凝りすぎたためでした。一人の俳人として真剣に俳句へ精進したいと願ふ私と、2人の子の母であり、時と余裕の無い家庭をもつ私と此2つの矛盾は始終私を苦しめました。」
と、久女は「俳句に蘇りて」(昭和2年9月「ホトトギス」)の中で、この頃の気持ちを書いている。
 しかし、その間に心の救いを宗教に求めたりしたが、久女の心を救うのは、俳句以外にはなかった。
 
  足袋つぐやノラともならず教師妻
  冬服や辞令を祀る良教師
 
 2句目は、素直な写生なのか、夫へ日頃の鬱憤を晴らそうとの思いがあったのか、久女の不満と揶揄の気持ちが籠もっている。
 
 3・虚子とホトトギス門下
 
 昭和11年10月号「ホトトギス」で久女が同人削除された理由は、前にも見てきたが、その一つが句集出版のために序文が欲しくて虚子に煩くつきまとったことだった。久女からすれば、手紙を出しても返事が来ない、上京しても虚子先生に会えない、周囲の人たちは虚子を久女から遠ざけようとするなど、悉く無視されているわけだから、久女の心は悶々とし続け、一つ一つが強烈なストレスとなっていた。
 皆吉爽雨は「久女文集を読みつつ」という一文で、虚子と門下との関わりについての見解を次のように述べている。
 「当時久女ほどの華々しい成績を見せていた作者だから、先生も殊の外書状や会合などで厚い交誼を見せていられたと思う。がこうした事情にあっても先生は淡交という君子の道をとられたに違いないとも思う。先生はそうした心得のあった方だし、そうならざるを得ない門葉の数だったのである。」
 ホトトギス一門の皆吉爽雨は、自らもこのように律している結社誌「雪解」の主宰でもあるので、巨大な「ホトトギス」の主宰者であれば門下への配慮はいかばかりかと虚子へ理解を示しているが、紀元前戦国時代の思想家荘子の著「荘子」の「君子の交りは淡きこと水の若(ごと)し」から引用した「淡交という君子の道」は納得のゆく言葉である。
 普通は、門下の方で虚子との間合いを計って接していくものだが、それが出来ない久女は悉く摩擦の種となっていった。
 
 4・相手の心が読めない久女
 
 また、北九州には小倉中学で夫の宇内の教え子だった人も多いことから、久女伝説といわれる話がいっぱい流布されている。有名な話は、俳句を教えていた橋本多佳子邸へ弁当持参で訪ねたというエピソードで、迷惑を顧みないあまりの長居に、多佳子の夫から終に訪問禁止を言い渡されたという。
 久女は俳句となると夢中になって話し込むが、それが殊に男性俳人の場合だったりすると噂にもなる。何ごとも一途になり過ぎることから、周囲から疎まれ避けられ、久女は傷つき苦しむのだった。
 
■久女の病名は
 
 久女は、夫も含めた世間と俳句芸術との矛盾に苦しみ抜いた。俳句の神とも崇める虚子は久女を、父のようには観音様のようには、丸ごと受け止めてはくれなかった。これまで久女に見たストレスの要因の上に、昭和8年頃に子宮筋腫という病気と更年期障害が襲い、久女俳句の一番の高揚期の直後に昭和11年の同人除名という事件が襲った。
 
 石昌子は「母の思い出─母との最後」でこう述べている。
 「俳句が忘れられない母は気六ケ敷く(きむづかしく)、何か思い詰めて暮らしていた。私達には、母にはもう俳句も無いといふことは察しられたが、何故そんなことになつたか解らなかつた。孤独で世の中から閉め出されてゐる感じが深かつた。(略)母は神経衰弱気味であつた。何でもないと思ふことに顔面蒼白になり激怒することがあつた」と。
 
 新興俳句系の俳人で精神科医の平畑静塔は、戦後の昭和26年に、北九州で久女とも交流のあった横山白虹と共に筑紫保養院を訪れて、病床日誌を見ている。
 「そのとき見たカルテで心にのこっていることは、たった三つのことである。一つは久女の病名が、Schizophrenie(精神分裂病)と書かれてあったこと、終り頃の記録に独語独笑ありと数カ所に書かれてあったこと、三つは末期頃下肢顔面に浮腫ありと記されていたことである。」
 静塔は「筑紫の配所──杉田久女のために」の中で、戦前戦後の最悪の医療事情に触れたりしているが、久女俳句には一語一語の端まで張りつめた高朗さがあり、精神分裂病素質者がよく示す無抑揚や単調の懈怠さは見られないと述べて、病名については結論付けることはなかった。
 最初に挙げた久女の病跡学の論文は、久女の晩年は精神分裂病の増悪(病状の悪化)があったのではないか、という見解を示している。
 
 「日本病跡学雑誌」での参考資料は、私がこれまで読んできた資料とかなり重なるが、久女の言動からみた診断は興味深いものであった。興味深いというのは、精神医学的な専門知識などは特に持っていたと思われない虚子も松本清張も田辺聖子も、精神科医と同じ病状を見抜いていたということである。小説家の目と感性はじつに鋭かった。
 現代であったら、精神分裂病は治療のできる病気の一つであり、「狂女」という言葉で人を排斥することはむしろ差別的であり、誰も当時のような扱いはしないだろう。
 
 資料を漁る中で、次の星野立子の、昭和30年の一文「尊敬する女流─由比ヶ浜での思い出」に触れて、初めて私もほっとする思いがした。
 「久女さんは俳人として、まことに立派でありました。私にはなつかしい、忘れることの出来ない先輩として永久に久女といふ名を胸の中に持ちつゞけ尊敬して参ります。私が今日、この年齢になつて、久女さんと俳句のことを話し合へたならば……と何か昔の私の若かった事が残念にさへ思はれて来るのでございます。」
 
 狂女伝説によって、久女俳句が傷つけられることは何もなかったのだ。
 虚子は、時に大鉈を振るう場面もあった。しかし、虚子の選から感じられるのは、虚子の俳句観において常に平等であった、ということである。久女の言葉を借りるとすれば、一面は老獪な王様かもしれないが、俳句という芸術の神様であったのである。

 今宵は、杉田久女の忌日である。「久女忌」の作品を紹介しよう。
 
■朔多恭の「久女忌」

  爪を立てためらふ朱欒久女の忌  朔多 恭  『蝸牛 新季寄せ』蝸牛社
 (つめをたて ためらうざぼん ひさじょのき) さくた・きょう

 杉田久女は、九州の鹿児島県に生まれ育った南国の女性である。朱欒はザボン。東京では大きなフルーツショップでは見かけるが近所のスーパーに置いてあることは少ない。筆者の私は大分県生まれで夫は長崎出身である。親戚から送ってくることも、帰郷の折の空港の土産物売場で買ってくることもある。
 ザボンの皮はかなり厚く、身は甘味も酸味も淡い。私は、煮詰めてジャムを作っている。
 
 掲句の、「ためらふ」をどう鑑賞したらよいのかと迷った。ザボンは、まず親指の爪を蔕の部分につき刺して、厚い皮を剥くのだが、指がザボンに入ると、身は案外にやわらかい。そのとき、立てた爪は、意外に感じて「ためらふ」のだろうか。作者の朔多恭は、躊躇いを爪に感じたのであろう。
 さらに朔多恭は、この日が「久女の忌」であること、久女は朱欒の育つ鹿児島生まれであることを思ったのかもしれない。
 
 また「爪を立て」からは、久女の生き方の、物事をはっきりせずにはいられず、衝突をしてしまう不器用さを思った。