第七百九十八夜 深見けん二の「紅梅」の句

  法隆寺              細見綾子
  
  千年の一と時生きて吾余寒  
  
 法隆寺に行くと千年という言葉が不思議と実感を持つ。この年の一月に俳句の師であった松瀬青々が亡くなり追悼の集まりがここであった。青々は法隆寺に対して殊の外尊敬の念をもっていた。帰依、渇仰、随喜、それらのいりまじった尊敬であった。大和斑鳩の地に建てられている多くの堂塔伽藍、数えきれない宝物、またそれらを通して推古の昔への憧憬。それらは青々の詩魂の中に息づいていた。
 私が法隆寺を知ったのは青々とのえにしによってである。それがなければ単なる歴史としての知識を出なかったと思う。
 法隆寺は松の立派なところである。蒼く黒ずんだ古松の間を歩いて千年を思い、自分の生の一瞬であることを思い、その自分に余寒の寒さのきびしさの切なることを感じた。
 青々没(昭和十二年)後間もなくのことで、生き死にのことが強く頭にあった。
                    (『奈良百句』用美社より)

 今宵は、冬の季語「探梅」の作品を紹介するつもりであったが、結果的に、春の季語「紅梅」の作品を鑑賞することになった。
  

  紅梅の蕊ふるはせて風にあり  深見けん二 『余光』
 (こうばいの しべふるわせて かぜにあり)

 平成3年1月、深見けん二主宰の「花鳥来」吟行が光が丘公園で行われた。光が丘公園の広い一角には梅園がある。このとき先生の見上げていたのは、きわやかなピンクの「紅梅」であった。先生が眺めている傍には、もちろん、私だけではなく数人がいて、先生がどの角度から見ているのか、どんな風に見ているのか、梅の花よりも興味津津であった。
 
 いよいよ句会が始まり句稿が回ってきた。〈紅梅の蕊ふるはせて風にあり〉の短冊を見た瞬間、けん二先生の作品だと思った。「花鳥来」の吟行句会には毎回、3、40人ほどが出席しているが、この作品は多くの人の選に入った。採った人たちが順に感想を述べた。
 「蕊ふるはせて風にあり」の具体的な描写の見事さを、口々に述べていた。
 
 1月の第3週目の句会というのは、寒中である。青々とした空の下は、津津とした寒さである。強い風があったかどうか覚えてはいないが、梅の咲いている高さの辺りは、梅の花弁も蕊もかすかに揺れていたのであった。
 その幽かな風の中にある、紅梅の薄い蕊の震えを、けん二先生は見逃すことはなかった。

 作品の季題は「紅梅」で春であるが、「探梅」とせずに、春の季題「紅梅」として作品に仕立てたのであった。「紅梅」と詠んだことで、震えている花弁も、濃いピンクの花の色も見えてきた。
 
 けん二先生は、『折にふれて』の著書の中の、「写生とは発見、描写」(1)の中で、次のように述べている。1部を転載させていただく。
 
 写生について、虚子先生が、最晩年の『虚子俳話』で、直接ふれているのは、「写生とは発見、描写」の1項目だけで、「俳句の写生という事は四季の万物の相を見て、その中からある映像を取出して来る事をいふのである。」に始まっている。
 これは、目に見たものを詠むということで、写生の原点であるが、浅くとられるおそれがある。しかし、次へつながっている。
 「万物の相といふと、万物そのものが生存してをる姿である。作者の心の働く前の姿である。が、写生とはそこに作者の心が働いて、その万物の相の中から或る一つの姿をとらへて来る事を言ふのである。(それを作者の小さい天地とでも言はうか、即ち作者が小さい小さい造化となつて小さい天地を創造するのである。)」と。
 
 掲句の「蕊ふるはせて風にあり」は、まさに、けん二先生が紅梅を見ている中で取出した小さな発見であり、描写することによって、小さい天地を創造したのであった。