第八百夜 富安風生の「冬濤」の句 

 1986年1月28日、初の民間人宇宙飛行士のエリソン・オニヅカが、10回目のミッションの打ち上げ中に爆発したチャレンジャー・スペースシャトル・オービタ機の中で死亡した。搭乗していたクルー7名の飛行士ともども全員が死亡した日である。

 評論家の立花隆は、12名の宇宙飛行士とのインタビューを重ねた中で『宇宙からの帰還』を書き上げた。
 
 「宇宙船からの眺めの中で、最も美しい眺めの一つが、日暮れ時の小便だ。一回の小便で、一千万個くらいの微小な氷の結晶ができる。それが太陽の光を受けてキラキラ七色に輝き、えもいわれず美しい。信じがたいほど美しい。」
 
 その中の、ラッセル・シュワイカートの、最も美しい光景として小便の箇所が愉快であった。それは、「宇宙ホタル」と名付けられたという。
         (林望監修、あらきみほ編『毎日楽しむ名文 365』より)

 今宵は、「冬の波」「冬濤」の作品を紹介しよう。

 1・冬濤はその影の上にくつがへる  富安風生 『富安風生全句集』
  (ふゆなみは そのかげのえに くつがえる) とみやす・ふうせい

 2・冬の濤あらがふものを怒り打つ  富安風生
  (ふゆのなみ あらがうものを いかりうつ)

 何年か続けて、正月が過ぎた頃の太平洋の冬の波を見に、常磐道を走っていわき市の手前の五浦の海岸へ行ったり、また水戸から大洗の海岸べりを南下したことがあった。
 五浦には六角堂があり、崖の真下は太平洋の荒波が巖を打っていた。六角堂は、明治時代に岡倉天心が思索の場所として自ら設計したものである。座禅を組んでもよし、横たわって波音に身を委ねても居心地のよさそうなスペースである。
 
 1句目。大きな冬濤を真正面から眺めていると、冬濤は大きな影を作りながら進み、高さがピークになると冬濤はドドーンという響きとともに崩れる。冬濤は自ら作った影の上に崩れてしまうのであった。
 富安風生が出会ったのは大きな冬濤だったのであろう。真冬の碧い空、空の蒼を映した冬の海も黒さを含んだ蒼であり、冬濤の覆った影もまた一層黒々と見えていたに違いない。
 
 2句目、中七の「あらがふものを」は、海上に飛び出ている大きな巖であろう。真直ぐに進みたい冬の濤にとっては、行く手を阻むものであり抗うものである。
 海の中の巖にぶつかる冬濤の景は、ザブーンという音と、飛沫を高々とはね上げている。なかなかに勢いのよい濤であると思っていたが、そうだったのか、冬の濤は、阻む巖に向かって己の怒りをぶつけていたのか。
 

  立ち上りくる冬濤を闇に見し  清崎敏郎 『島人』
 (たちあがりくる ふゆなみを やみにみし) きよさき・としお

 清崎敏郎は、昭和34年4月8日に亡くなられた虚子先生への直接の追悼句は句集に見ることはないが、第二句集『島人』のあとがきには、「頭を下げて、体ごとぶちかましてゆくべき胸板を失った空虚感と同時に、これではならぬという、日頃の安易な作句態度を反省させられもした」と書いた。また、櫻楓社刊『高浜虚子』のまえがきの冒頭で敏郎は、「虚子先生は、私にとって偶像である。単に俳句の師であったばかりでなく、亦、人生の師でもあった」と書いている。

 掲句は昭和38年の作で、第二句集『島人』集中の句である。『島人』には、虚子没後の虚しさを埋めるように、虚子の晩年を共に研鑽した湯浅桃邑に誘われて八丈島に遊んだ。句集には島々をめぐって得た作品が多く、この作品も、八丈島で詠まれた作品中の1句である。
 
 「立ち上がりくる冬濤」とは、夜の海辺で見ていた冬濤が、虚子先生の面影となって闇に立ち現れた、ということではないだろうか。
 こうした気持ちの高揚した句から、心を作句にぶつけ虚子の俳句観を体感したのが、この時期であったかと思われる。
 
 「冬の濤」には、強い季節風の吹き荒れ逆巻くような波が立っている冬の海の、剥き出しの荒々しさがある。だが、どこまでも純な一途さがあって、佇む者の問いかけに応えてくれのではないかと、見に来たくなるのが冬の濤である。