第八百二夜 深見けん二の「冬泉」の句

 深見けん二先生の結社「花鳥来」の例会は吟行句会を旨としていた。自然に触れること、自分の目で見ること、写生の目を鍛え、客観描写の訓練の大切さを教えていただいた。毎回必ず参加できることは叶わなかったが、それでも、東京、埼玉、神奈川はかなり歩いた。
 
 今宵は「冬の泉」の作品を紹介させていただこう。
 
 かつて私の住んでいた東京練馬区の石神井公園に、泉があった。「花鳥来」の吟行地が石神井公園のときは、徒歩で行けた。
 石神井公園は、駅から近いボート池と道を挟んで三宝寺池の2つに別れている。泉は、三宝寺池の真ん中辺りの木立の中にあり、どうやら、三宝寺池と地下で繋がっているようだ。薄暗い木立の中に、ぷくっぷくっとおだやかな膨らみを見せて湧く泉は、誰もが心が和むのであろう。必ず、誰かが立ち止まって佇んでいる。
 吟行会では、けん二先生がいつも長いこと佇んでいらした。代わる代わる会員が歩いて来るので、挨拶と、泉の説明で作句に集中することが大変だったのではと思い返してみるが、けん二先生のお顔はいつも穏やかな眼差しとお声であった。
 
  安らけしいつも誰かがゐる泉  泉 幸子
  
 この作品は、「花鳥来」の会員で、平成25年(2013年)7月27日に67歳で亡くなられた泉幸子さんの句である。夏の作品であるが、石神井公園の泉の作品である。

 今宵は、「冬の泉」「冬の水」の作品を紹介させていただこう。
 
■冬の泉

  自らに問ふこと多し冬泉  深見けん二 『日月』
 (みずからに とうことおおし ふゆいずみ) ふかみ・けんじ
  
 ポコッポコッと、音をたてながら、水が湧いてくる泉を眺めていると、例えば、何かを考えているときにポコッという音がすると、返事をしてくれているようである。またポコッと泉は音をたてる。
 
 こんなふうに湧いてくる泉のたてる音が、あいづちを打ってくれているような音に聞こえてくることがある。けん二先生は泉の湧く音の前で、日頃から考えていることを纏めたり、己との問答をはじめることがあったのかもしれない。
 「冬泉」の季題が、「自らに問ふこと多し」の答えのようである。さらに、何よりも泉の湧く音、しかも冬の泉だからこその音、他の季節の音にはないきっぱりした音だからなのではないだろうか。

■冬の水

  冬の水一枝の影も欺かず  中村草田男 『長子』
 (ふゆのみず いっしのかげも あざむかず) なかむら・くさたお

 句集『長子』は、草田男が高浜虚子の「ホトトギス」で客観写生を学んでいた頃の作品である。一員として参加した昭和8年12月3日「武蔵野探勝会」(第11回)での作品で、虚子選に入った句である。
 選をしていた虚子がこの句が披講された時、思わず唸っていたと、虚子の4女の高木晴子が伝えている。
 
 この日の吟行記事の担当は草田男であり、掲句が生まれた、水辺へ降りてゆく過程が次のように書かれていた。
 「微動もしない穏やかな冬の水が、深く脚元に澱み湛えて居る。これが其の昔、立川氏の本拠だった頃の堀跡なのであろう。川原へ迄の平地と同水準にあるだけに、ここに居ると、上から俯瞰した時のように種々の物の姿が光らない。いかにも沈静だ。水辺の枝の細かな樹木が、其の儘の姿を水面鏡の上に――故芥川龍之介愛用の言葉を借用すれば――瞭然と、切ないほど瞭然と映って居る。」(『武蔵野探勝』より)
 
 草田男自身、このように自解しているように、この作品の素晴らしさは、「一枝の影も欺かず」と見てとった写生の力であり、季語「冬の水」の力であると言えよう。
 
 「冬の水」は、一年のうちで最も澄んでいて寒々としているものである。つめたい水だが、深々した影をもっているようでもある。映る影は、草田男の作品のごとく、精密な感じとなり、きびしく、美しい、硬質な水というイメージである。