第八百四夜 深見けん二の「セーター」の句

 編物が好きなのか、毛糸が好きなのか、高等部時代も大学時代も、秋から冬、春先まで、休み時間にはよく編物をしていた。大学の講義のない時間など、喫茶店で友だちと過ごしていたが、話しながら手を動かしていた。当時は縄編を入れたセーターも作ったことがあった。
 その一つはボーイフレンドにプレゼントする男物だ。男物のセーターは、女物と違って裄丈が長いから大変! 途中で、縄編など入れたりしなければよかったのに、と後悔したものだ。
 
 わが子2人のセーターは、いずれも編物の好きな祖母である母製。小さくて可愛いので、今でもタンスの奥に仕舞ってある。
 
 今宵は、「セーター」の作品を紹介しよう。

■1句目

  セーターの男タラップ駈け下り来  深見けん二 『父子唱和』
 (セーターの おとこタラップ かけおりく) ふかみ・けんじ
 
 この作品を最初に知ったのは、出版社蝸牛社から『蝸牛 新季寄せ』を制作していた時である。編集委員、選句委員、選句協力をしてくださったのは32名の先生方であった。けん二先生は、編集委員のお一人であった。
 
 句意は、タラップを駈け下りてきたのは、セーター姿の男性でしたよ、となろうか。平明な詠み方で、たちまち男の動きが見えてきた。句集『父子唱和』には、「横浜埠頭 三句」として次の作品が並んでいた。
 
  セーターの男タラップ駈け下り来
  見てゐたる出船の汽笛蜜柑剥く
  泊船のロープの張も秋の晴

 けん二先生ご自身が、海外から飛行機で羽田に到着した時の、飛行機の「タラップ」を下りているところを詠んだものと思っていたが、そうではなかった。横浜埠頭には、出迎えに行ったのか、横浜埠頭へ吟行したのであろう。
 
 現れたの男は、軽装の「セーターの男」であり、軽やかな足取りでタラップを駆け下りてきたのだ。なんとも爽やかな光景である。

■2句目

  セーターにもぐり出られぬかもしれぬ  池田澄子 『空の庭』
 (セーターにもぶり でられぬかもしれぬ) いけだ・すみこ

 2020年4月19日、「千夜千句」第百六十二夜に登場してをり、〈じゃんけんで負けて螢に生まれたの〉を鑑賞していた。
 
 掲句は、丸首のセーターを着るときと脱ぐときの瞬間だ。丸首セーターは、着るときも脱ぐときも、首がセーターにもぐる瞬間がある。一瞬の暗闇にいるように思うのかもしれない。子育てをしていた頃、幼い子は、首がセーターからなかなか抜け出せないと、恐怖を感じるのか泣き出した。
 
 祖母である母は、よくトックリ型のセーターを編んでくれた。一人で着るとき、首を出すことが案外むつかしい。子どもは直ぐに大きくなり、セーターは直ぐに小さくなる。また洗濯をする度に縮んでしまうこともある。
 
 セーターにもぐり、ここから、出られないかも知れぬ、とは大人でも感じることである。とくに、手や肩の弱っている老人など、ある年齢になったら、傍で見守ってあげると安心だ。
 子にとっても大人にとっても、恐ろしいのは「闇」であろう。