第八百六夜 山口誓子の「春の七曜」の句

  春が来た

 春が来た 春が来た どこに来た。
 山に来た 里に来た、
 野にも来た。

 花がさく 花がさく どこにさく。
 山にさく 里にさく、
 野にもさく。

 鳥がなく 鳥がなく どこでなく。
 山で鳴く 里で鳴く、
 野でも鳴く。
          高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌(三年)

 今宵は、「立春」から「春浅し」の頃の、ようやく暦の上でも春が訪れてきたことを喜んでいる、そうした作品を紹介してみよう。春になると、今でも「春が来た」の小学唱歌が頭の中をめぐる! 
 

  麗しき春の七曜またはじまる  山口誓子 『七曜』第4句集
 (うるわしき はるのしちよう またはじまる) やまぐち・せいし

 中七の「春の七曜」とは、春の日々の日曜日から土曜日までの七日であり、春は三ヶ月だから、およそ十二回の七曜があることになる。誓子にとっての大好きな春の季節の、麗しい十二回の七曜がめぐりくるのである、という句意になるであろうか。
 この時期の誓子は、「ホトトギス」を辞め、水原秋桜子の「馬酔木」に移っていたが、急性肺炎にかかって、三重県四日市市の天カ須賀に療養していた。終戦前の戦地に行くこともなく、美しい海辺での生活は、一時の穏やかな日々であったのであろう。
 
 掲句の持つ、わくするような明るさは、山口誓子俳句の中であまり見たことはないように思った。
 
 誓子俳句の特長である、『炎昼』の〈ピストルがプールの硬き面にひびき〉のように、一句全体がピーンとした緊張感がみなぎっている作品に上手さを感じている。この作品で、一句の中に二つのものを詠み込んだ俳句を「取り合わせ」や「配合」と言わずに、誓子は「二物衝撃」という言葉を用いた。
 大正時代の初めに、河東碧梧桐が新傾向運動の中で試みた「取り合わせ」は、この誓子の二物衝撃の緊張感であった。
 
 大正11年、誓子は東大入学を機に「東大俳句会」に入会し、「東大俳句会」を指導していた虚子に師事するようになり、虚子の「ホトトギス」の元で、誓子は客観写生を学んだ。
 「四S」の作家として発表した作品に虚子は、誓子は「二物衝撃」という言葉を用いて、〈流氷や宗谷の門波(となみ)荒れやまず〉がある。
 誓子の二物衝撃とは、「即物具象の方法」と「モンタージュ法(映画からヒントを得た写真構成)」を用いたもので、後に、創刊主宰した「天狼」の合言葉「生命の根源を掴む俳句」を得る手法となった。
 
 この作品を、虚子は次のように評している。
 「この句をよむと、単に景色を叙した客観句であるに拘わらず、此の作者の頭の中をおしはからずはいらねない。(略)恰も飛行機に乗って非常な高所から下界を見下ろした如く、天地を狭しとして小宇宙を頭の中に描き出したかの感じがする。(略)またわが俳句の新境地に鉄の草鞋(わらじ)を踏み入れた一方向の句として特に認めていい。」と。
 
 この最後の「またわが俳句の新境地に鉄の草鞋(わらじ)を踏み入れた一方向の句として特に認めていい。」という虚子の言葉は、虚子の元で大きくなった弟子たちを羽ばたかせるきっかけになったのではないだろうか。弟子が独り立ちする時というのは必ずやってくる。形こそ違え、中村草田男の場合もそうであった。