第八百七夜 上田五千石の「春浅し」の句

 ジャズムーブが起きたのは、アメリカでは1910年頃といわれる。日本では昭和38年(1963)後半の頃ではないかと思う。ジャズの話は、青山学院高等部時代の休み時間のお喋りの中で初めて出てきた話だったからだ。私は、目を丸くして聞いていた。
 レコード盤を持ち込んでクラス中に見せたり、新しい話を聞かせてくれていたのは、プロ野球監督小西得郎の息子の小西くんだったかしら・・? その頃に聴いていたのはアメリカのレコードで、やがてテレビでは美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの3人娘が唄うようになった。
 「ホワッツ・ニュー」を唄ったのは笠井紀美子・・。トランペットを頬を膨らませて吹いていたのは日野皓正が、私にとってのジャズが腹部に響いた最初かもしれない。
 
 大学に入った頃、ジャズ喫茶に時々行った。暗い地下室が多かった。お喋りというより皆がそれぞれの世界にもぐり込んでいるようであった。
 大学では、アメリカ文学に興味を持ち、4年の時に受けた「黒人文学」の授業に惹かれた。あまり真面目に勉強しなかった学生であったが、東大から来ていた老教授の話は楽しく、論文を書いた時には、名指しで「A」の評価をいただいた。
 教室の皆が、最後列にいた私をふり返ったという、数少ない科目であった。
 
 今宵は、「早春」「春」の作品をみてみよう。
 
■1句目

  春浅き黒人霊歌地下よりす  上田五千石 『上田五千石全句集』
 (はるあさき こくじんれいか ちかよりす) うえだ・ごせんごく

 黒人霊歌とは、元々は黒人奴隷たちが厳しい労働作業を終えたあと唄ったものである。現在の辛さは、やがて神の国に召された後にはなくなると信じた歌詞である。現実逃避ではあろうが、黒人奴隷たちにとっては、そう願うことだけが唯一の慰めであった。
 
 掲句は、日本のジャズ喫茶のように思う。四谷にある上智大学での授業を終えた外堀通りの帰り道かもしれない。ビルの地下には、必ずのように喫茶店がある。ジャズが流行っていた当時はジャズ喫茶であった。入り口を開閉するたびに、黒人霊歌が漏れてきていた。

 上田五千石は、上智大学文学部新聞学科に入学。昭和29(1954)年、極度の神経症に悩むが、同年秋元不死男に師事、「氷海」に入会してのち快癒した。在学中は「子午線」や関東学生俳句連盟にも参加。有馬朗人、深見けん二、寺山修司といった俳人と交流し「天狼」にも投句した。「畦」を創刊・主宰。現在は、娘の上田日差子さんが「ランブル」を創刊・主宰。

 この度、五千石の経歴を見てゆきながら、私の師・深見けん二先生もまた、自らの俳句研鑽のために様々な俳人の方々と交流をしていたことが分かったことが嬉しい。

■2句目

  川波の手がひらひらと寒明くる  飯田蛇笏 『雪峡』
 (かわなみの てがひらひらと かんあくる) いいだ・だこつ

 「寒明くる」とは、立春になることで、2月4日のことである。今日から「寒明け」「立春」といっても、気候の流れはきっちりとはいかない。寒中よりも寒明けの方が寒い日となることだって多い。
 
 掲句は、川を眺めていると、川波が立っている。季節によって川波の見え方は違っていて、寒さの残っている「寒明け」の頃には、どこか波の一つ一つが尖っているようであった。川波が手のように見えたのであった。
 だが「川波の手がひらひらと」と詠んだことによって、ひらひらしているのは、川波からの、「もう春になりましたよ!」という挨拶にも感じられてきた。