第八百十夜 高野素十の「麦踏」の句

 私の住む茨城県守谷市から筑波山を右手に眺めながら北上してゆく街道の左側は麦畑がつづいている。黄金色に稔るので小麦だ。その向こうには白っぽい黄金色が広がっているが、それはビール麦だという。

 お百姓さんが自ら踏んでいる「麦踏」は、最近は見かけることはない。麦と言えば、育てる過程で麦踏み作業は必要であるとずっと思っていた。麦踏みは、秋播きの麦類が発芽した後に、足で踏みつける作業である。麦の芽が、ロゼット状であるうちに踏圧することで、冬季の霜柱などによる凍霜害を防ぎ、ひょろひょろと無駄に伸びてしまう徒長(とちょう)を防ぎ、根の張りをよくして、耐寒性を高めるという大切な行程である。
 今回、初めて知ったが、「徒長」というのは、植物の茎や枝が必要以上に間延びしてしまうことだそうである。
 
 あるとき、麦畑の道端に車を停めて眺めたのは、畝を押し固めてゆく機械を動かしている光景であった。そうなんだ。お百姓さんの麦踏みを見ることは、今はもうなくなっているのだ、と思った。
 季語「麦踏」は、現代では大農場の麦畑では見ることはないかもしれないが、素敵な季語の一つだと思っている。麦畑は、冬から早春の濃い緑も、初夏の黄金色に稔るころの麦秋も、じつに美しい。かつては、麦踏みをして、よい麦を育てていたことは「麦踏」の季語とともに忘れないでおこう。
 
 今宵は、「麦踏」の作品を見てみよう。 

  歩み来し人麦踏をはじめけり  高野素十 『初鴉 句集』
 (あゆみきしひと むぎふみを はじめけり) たかの・すじゅう

 平成11年に茨城県南に越してきた筆者の私は、車で、素十の生家を探し回ったことがあった。素十が生まれ育ったという茨城県北相馬郡山王村神住(現取手市)は小貝川沿いに田んぼの拡がる地域である。現在の神住辺りは土堤が築かれているが、台風の度に暴れたという小貝川が直ぐ目の前を流れている。神住という地名は、平将門縁の稲荷神社があり神が住む意であるという。
 
 素十は、12歳のとき山王村を離れて、新潟の叔父高野毅の家に寄食した。高野毅は、頭脳明晰で進取の精神があり、会社を経営し、後には衆議院議員も務めた人だという。素十は、新潟に移り住んで以来、生地に戻って住むことはなかったが、弟の住む山王村へたびたび帰郷している。この辺りにも麦畑が広がっている。
 
 掲句は、麦畑にやって来るや、いきなり麦踏みをはじめましたよ、という作品である。この作品の良さは、お百姓さんがは麦畑にやってきて、そのまま麦畑に入って、歩みのスピードを変えることなく、すっと麦踏みの形になっていることが伝わってくることであろう。
 
 麦踏みの形というのは、後ろ手に手を組んで、麦の芽を押すように踏み固めてゆく作業である。ゆっくりと、しっかりと、同じ力を麦に押しつけてゆく作業である。単純な作業である。一人のときもあり、昔は、子どもが後ろに付いて同じ格好で踏んでいるのを見かけることもある。
 
 毎日のように麦の芽が伸びすぎてはいないか、よい麦を育てるにはひょろひょろとした茎では駄目だという。伸びたところを踏むことによって、たくさんの芽を出させるという。また、冬霜のために浮き上がった根をしっかりさせるために麦踏みをするという。
 
 素十は郷里の句や農業の句を多く詠んでいる。
 
  百姓の血筋の吾に麦青む  『初鴉』『雪片』
  稲刈の母目をつぶり乳をやる  『初鴉』
  耕牛について或は身を反らし  『初鴉』『雪片』
  早乙女の夕べの水にちらばりて  『初鴉』『雪片』
  
 高野素十は、大正12年に虚子の指導する「ホトトギス」と東大俳句会に所属し、客観写生を学んだ。『初鴉』の序で、「磁石が鉄う吸う如く自然は素十君の胸に飛び込んで来る。・・句に光がある。これは人としての光であろう」と、虚子は書いている。