第八百十一夜 武原はんの「春の雪」の句

 今朝、小学校以来の長い友人和子さんから、京都の雪景色の動画がラインに送られてきた。全盲のピアニスト辻井伸行の弾く「ノクターン」の演奏をバックに、動画の雪景色の嵯峨野の竹林は、雪の重さも加わって、より深々と感じられた。

 今宵は、武原はんの「春の雪」の作品と、以前に俳誌「鑛(あらがね)」に連載した、「武原はん──美を一筋に」を、一部省略したものを転載させて頂こう。
 
■作品

  東山晴れて又降る春の雪  武原はん 『武原はん一代』
 (ひがしやま はれてまたふる はるのゆき) たけはら・はん

 春の雪が降っている。やがて東山の方から晴れてきたので、雪は止んだのかと思っていたら、また、降り出してきた。解けやすく、降るそばから消えてゆく雪を淡雪ともいうが、年によっては大雪になる場合もある。
 
 武原はんは、徳島県の生まれ。大阪の芸妓学校で上方舞を修行し、14歳で芸者になる。美術評論家の青山二郎と結婚していた時期もあり、料亭「灘万」の若女将の時代もあり、新橋芸者の時代もあるが、舞踊家である。

■「礦」誌より 

  武原はん──美を一筋に      あらきみほ
                  
 「艶寿会」という、昭和25年に発足し昭和34年4月にホトトギス主宰の高浜虚子が亡くなるまで50回続いた会があった。メンバーは新橋芸者の五郎丸や小時、山口誓子の妹で芸者の下田実花、梨園の中村吉右衛門と妻の千代、楠本憲吉、星野立子などで、その中に、武原はんもいた。
 当時はんは、大阪で人気を誇った芸者を辞め、東京の料亭なだ万の副支配人となっていて、同時に上方舞の舞踊家として芸に励んでいた。
 皆、「おはんさん」と呼んでいた。
 
 おはんは、昭和10年頃から虚子の下で俳句を作りはじめ、やがてホトトギスの「山会」で文章も書くようになった。随筆集『おはん』の「入門」という文に、初めての吟行句会で一点も入らずに外に出て泣いたときのことを、「俳句会と言うものはえらい恥ずかしい思いをするものだすな……」と書いている。

  句友らが目出度く老いぬ花の春  昭和51年
  友は句に吾は舞に老ゆ去年今年  昭和58年

 合同句集『艶寿集』の序文は、虚子の『椿子物語』の中の「新橋の俳句を作る人々」が転載されたもので、その中の「山会」での実花とおはんの競り合いの場面など、互いの負けじ魂はたのしく、2人は生涯の句友でもあった。

 ■はんの舞

 武原はんは明治36(1903)年徳島市に生まれた。12歳で大阪の大和屋芸妓学校に入学、芸者時代を経て、おはんは東京で更なる舞の精進をして舞踊家となった。
 『武原はん一代句集』は、82歳のおはんのおよそ50年間の句集であり、舞や稽古の句がかなりの数に及んでいる。

  小つづみの血に染まりゆく寒稽古  昭和13年  
  汗しとど舞を命の老なれば  昭和54年  
  初音聞き舞たき心そぞろかな  昭和59年
  雪を舞ふ傘にかくるる時涙  昭和60年
  
 武原はんの地唄舞「雪」をテレビで観た。男に捨てられて芸妓から尼になった女の別離の哀しみの舞という。舞台中央に白装束で傘を持った姿の何と動きの少ないこと。しかも、涙でさえ顔が傘に隠れたときに流すのだという。
 その時、以前にバレエで観たガラ公演でのプリセツカヤの舞台を思い出した。ドレスの裾を舞台一面に広げたプリセツカヤは微妙な手と表情の動きだけで微動だにしなかったのだ。動かないバレーというものを観たのは初めてであった。
 プリセツカヤのバレーを観ながら、初めて観た能舞台のシテの序の舞は、こちらが戸惑うほどで、爪先の少しの動きであったことを思い出した。
 そして私が早朝に父と見た光が丘公園で、一度だけ出会ったことのある、虚子の次の句のような満開の桜大樹の情景を思い出していた。

  咲き満ちてこぼるる花もなかりけり  高浜虚子 『年代順虚子俳句全集』

 満開の桜は一片の花びらも散らない。一年かかって準備し、爆発のエネルギーを内に秘めたまま咲いているのが満開の状態だ。いずれは散る、いずれは欠ける、いずれは死ぬ、そのいずれ訪れる「崩壊」の瞬間まで、人間も自然も、時を使い心を砕いて生きているのだと思った。
 咲き満ちた花も、心の内を見せないおはんの舞も、静かな緊張感を湛え、観る側の眼を逸らさせない迫力である。
 昭和3年4月8日に詠まれた作品であり、虚子の代表作であるのに、虚子の『五百句』には入集されていない。

 上方舞または地唄舞とは、屏風を立てた座敷で舞い、能を基調とした動きの、静的な内面的な舞であるという。
 虚子の教える「客観写生」や「花鳥諷詠」と共通する。

 ■おはんの俳句

 『武原はん一代句集』は、虚子選の『小鼓』と高浜年尾選の『はん寿』の句に稲畑汀子選の作品を加えたおよそ1400句。その年代順にたどって読み進むうちに、平明な詠みぶりの向こう側に武原はんの立ち姿が現れるようであった。

  ぽたり落つ雪をうしろに門を入る  昭和28年
 (ぽたりおつ ゆきをうしろに もんをいる)

 掲句はこうであろう。門を入った瞬間、後ろに雪のしずる音。だが、おはんは、振り返ることもせず、しずる音を背に聴きながら門を入ってゆく、おはんの半身の後ろ姿である。

 おはんは一生かけて、舞踊家として「観られる自分」の身心を磨き続けた人である。一瞬にして消えてしまう舞姿は「動く錦絵」とも評されたように、どこでストップをかけられても、一糸乱れぬ美がそこに存在するように、日々鏡に映して稽古を重ねてきた。
 一時期、私が白州正子の本を読み漁っていたとき、青山二郎とおはんの写真に出合った。二人は結婚していたのだ、と思ったとき青山二郎の審美眼に叶うほどのおはんを感じた。
 青山二郎という人は何しろ、白州正子に骨董の美を一刻一刻の真剣勝負で鍛えた一人なのだから。おはんの美への追求は、この青山二郎との結婚生活で加味されたのかもしれないと思った。

  舞に生く露のはかなさ知りながら  昭和57年

 おはんは、俳人武原はんではない。舞踊家武原はんである。
 おはんは、芸者で磨いた人の心の綾も、俳句や文章で磨いた客観的視点や感性も、美術家青山二郎との結婚も、写経で静観な心を得たことも、すべてが一体となって舞の美へと収斂した。