第八百二十一夜 深見けん二の「掃苔」の句

 俳人協会から刊行された『深見けん二集』を、久しぶりに読み返してみた。自註現代俳句シリーズ・続編20は、平成元年、私が朝日カルチャーセンター光が丘の深見けん二教室で師事をはじめた頃の作品からはじまっている。どの作品も懐かしい。
 
 当時は、けん二先生の作品の背景が知りたくて、落花の句があれば光が丘公園の花の下に立ち、夕桜や朝桜、雨の桜などを長いこと眺めたこともあった。朝は、俳句が好きな父が、夜は、夫がついてきてくれた。
 
 たとえば、〈枯菊を焚きて焔に花の色〉の作品を詠んだ句を見つけた際には、夫に頼んで菊畑を作り、初冬には大焚火をした。一年がかりであったが、同じ焔の色を見ることができた。真似をしてみても同じような作品が生まれるわけではないことは無論であったが、鑑賞する際には、見ていたことが役に立ったように思っている。
 
 今宵は、自註現代俳句シリーズ・続編20『深見けん二集』から作品を紹介させて頂く。

■1句目

  掃苔や父の一生一穢なし  昭和57年作 『花鳥来』
 (そうたいや ちちのいっしょう いちえなし)  【掃苔・秋】

 このように、ずばり言い切った作品に出合ったことに、とにかく驚いた。わが家のお酒好きな父も夫も、娘であり妻である私からすれば、手のかかる父であったし夫である。二人とも九州男児で、とにかく威張っていて、亭主関白であるから、「父の一生一穢なし」の作品に出合って、このような男性がいることに驚いたのであった。
 
 句会の後の二次会で、「先生のような男の方がいることに驚きました・・」と言うと、先生はにこにこされたが、それから35年、「花鳥来」の句会に参加し、忘年会ではご自宅で龍子奥様の手作りのご馳走をいただき、若かった句会の連衆はお酒によもやま話に騒いでいたが、どんな時も、崩れた師の姿を見ることはなかった。
 
 先生を思い出すときには、必ず、「師の眼差し」の穏やかさと暖かさが瞼にうかんでくる。やさしいばかりでなく、ほんの僅かなヒントをくださって、私たちに自ら考える機会をくださった。
 
 昨年の令和3年9月15日、けん二先生はにお亡くなりになった。一生を振り返られた、龍子奥様にとっても、息子さんやお孫さんたちにとっても、「一穢なしの一生」であったという思いで看送られたのではないだろうか。
 私たち弟子にとっても、同じ思いである。

■2句目

  母亡くし師走ひと日の川ほとり  平成2年 『余光』  
 (ははなくし しわすひとひの かわほとり)  【師走・冬】

 先生のお父様は昭和31年に71歳でお亡くなりになり、お母様は平成2年に91歳でお亡くなりになっている。
 
 お母様が亡くなられた年の師走に、けん二先生は家の裏手の、片側は崖(ハケ)になっていて、梁瀬川が流れているほとりへ出た。少しゆくと、木立があり、武蔵野の面影がある。この木立と川の流れのほとりをお母様を思いながら歩いたのであった。
 
 お父様が亡くなられてから34年後の平成2年にお母様がお亡くなりになられた。光が丘のカルチャーセンター深見けん二教室で俳句を学びはじめていた私は、この時のことを覚えている。なぜ句会の人がお母様の死を知ったのか、忘れてしまっているが、句会でささやかに弔意を表した。
 その次の句会で、先生は、鎌倉豊島屋の小鳩豆楽という小鳩の落雁の包を、私たちが座っている席を回りながら一人一人に手づからくださった。小鳩の落雁の、じつに可愛らしかったこと。食べるのが惜しいほどであったが、口に含むとすうっと柔らかな甘さが口に広がってきた。
 
 きっと、長いこと看取りをなさった龍子奥様のお心遣いであったにちがいないと思った。
 
 句集名の「余光」とは、「お陰」という意味だそうである。