第八百二十三夜 中村草田男の「春の闇」の句

   三叉土筆       野口雨情

 ある日、二人の仲よしは、土筆を採りに行くことになりました。おたあちゃんのお母さんは、いつものやうに、二人のお弁当をこしらへてくれました。そして云ひました。
 「土筆を採りに行ったら、気をつけておいでよ、三叉土筆(みつまたつくし)と云つて一つの茎から三つの土筆が出ているのがあるかもしれないからね。そんなのは滅多にないのだけど、」ひよつとしたらあるかもしれないよ、昔から三叉土筆を見つけた人は、出世すると云つてゐるから探してご覧」
 出世すると云はれて、二人の大きくみひらいた眼には、一層喜びの色があらわれました。
 「わたし、なんだか三叉土筆てのを見つけるやうな気がしてよ」とおたあちゃんは行く途々云ひました。
 「さう、わたしもそんな気がするわ」
 おきいちゃんも負けん気になつて云ひました。(『野口雨情 第六巻』未来社) 

 今宵は、「春の闇」の作品を紹介してみよう。
 
■1句目

  春の闇幼きおそれふと復る  中村草田男 『長子』
 (はるのやみ おさなきおそれ ふとかえる) なかむら・くさたお

 中七の「幼きおそれ」とはどういうことだろう。寝入るときには母が添い寝してくれていた。だが真夜中に目覚めると一人ぽっちだった。暗闇の中に置き去りにされたかもしれないということが、「幼きおそれ」であったのかもしれない。
 
 「春の闇」とは、月の出ていない春の夜の闇をいう。うるんだようなしろじろとした、どこか情感のこもったような、木々の匂いがあり水の匂いがあり、花の香りがある、情感のこめられた闇が、季語の「春の闇」である。神経衰弱であったという草田男が子ども時代に感じた怖れが草田男に蘇ったのは、こうした春の闇の中であった。

 この作品は、草田男の第一句集『長子』の冒頭に置かれた「帰郷」28句中にある。久しぶりの帰郷で、若き日を思い出しての追体験の句である。

■2句目

  灯をともす指の間の春の闇  高浜虚子 『七百五十句』
 (ひをともす ゆびのあわいの はるのやみ) たかはま・きょし

 次の3句は、虚子没後に『七百五十句』を纏める際に、星野立子らが虚子の句帖から選んで追加したものである。詞書に「如月会(三輪田)。和光。」とある。
 
  灯をともす指の間の春の闇
  灯をともす掌にある春の闇
  テーブルの下椅子の下春の闇

 星野立子編『虚子一日一句』の昭和34年2月28日に、この作品の背景が、次のように書かれている。
 「三輪田繁子先生を囲む家庭裁判所の調停委員や判事さん方の句会が前年に生まれた。和光といふ料亭は長谷、光則寺前にあつて、戦前吉田五十八氏の設計になつた某邸あとである。家もよいが庭がよく出来てゐた。」と。
 
 三輪田繁子代表の句会は「如月会(きさらぎかい)」である。
 
 詠まれた日付を見ると、虚子晩年の作品である。くり返すが、「春の闇」とは、うるんだようなしろじろとした、どこか情感のこもった月の出ていない春の夜の闇をいう。

 虚子は、当日の句会で出された兼題「春の闇」と真っ向から挑んでいた。否、「挑む」とは違って、いつの間にか「春の闇」の在りどころに夢中になっていた。
 「灯をともす指の間の」「灯をともす掌にある」「テーブルの下椅子の下」の措辞のどれもが、座敷にいる虚子が感じた、「春の闇の在りどころ」の客観描写であった。また虚子の日常の存問であった。
 
 「俳句」昭和34年5月号・高浜虚子追悼号に載せた、山本健吉の言葉は次のようであった。
 
 「虚子はあたかもカメラのように、無造作にシャッターを切ると、何時でも十七文字の作品になるような眼と心を、常住坐臥、持っているようなものです。」