第八百二十四夜 稲畑汀子の「三月」の句

 「ホトトギス」名誉主宰であった稲畑汀子さんが、令和4年2月27日午後4時48分、心不全のため兵庫県芦屋市のご自宅で亡くなられた。このニュースは、本日3月2日、偶然スマホを見ていた画面に飛び込んできて知ったのであった。
 
 稲畑汀子さんは、小林聖心女子学院高校卒業後、同英語専攻科在学中に病を得て退学するが、生涯カトリックの信者であった。汀子の死は、天にましますイエス・キリストの御下へ帰天されたということで、満91歳であった。
 
 父は高浜虚子の長男の高浜年尾、稲畑汀子は虚子の孫である。昭和54年(1979)、父高浜年尾の死去にともない、稲畑汀子は「ホトトギス」を継承し、昭和62年、日本伝統俳句協会を設立し、虚子の「俳句は花鳥諷詠詩」の精神を継承した。平成25年(2013)、「ホトトギス」主宰を息子の稲畑廣太郎に譲り、稲畑汀子は同名誉主宰に就任していた。
 
 地元の兵庫県芦屋平田町の稲畑汀子の広大なお邸に隣接して、虚子記念文学館を開館。平成25年には、正岡子規国際俳句賞選考委員なども務める。かつて祖父の高浜虚子や叔母の星野立子がヨーロッパやアメリカに俳句の種を撒いてきたが、堂々とした風格の汀子は、さらに俳句を世界に広めていた。
 
 滅多に出席することのなかった俳句の年間大賞の発表の会場に参加したことがあった。稲畑汀子さんは審査員であった。休憩時間にロビーでお目にかかったとき、「花鳥来」の深見けん二先生のところで学んでいますと、ご挨拶をしたことがあった。

 今宵は、「三月」の作品を紹介しよう。

■1句目

  三月のかの地いかにと旅支度  稲畑汀子 『月』
 (さんがつの かのちいかにと たびじたく) いなはた・ていこ

 俳誌「ホトトギス」は、明治30年に松山の柳沢極堂によって「ほとゝぎす」の名で創刊されたが、一年後、高浜虚子が経営を引き継ぐことになり、すでに病臥の身であった正岡子規の協力の下に、東京での発行となる。
 
 稲畑汀子は、正岡子規、高浜虚子、高浜年尾に続く「ホトトギス」の4代目の主宰である。若い頃から俳句が好きで、祖父虚子や父年尾について吟行に参加していたという。虚子の文章で、真っ赤なコートを着た汀子のことを書いた一文を読んだことがあった。
 
 句意はこうであろうか。今は三月。「かの地いかにと」とは、次に行く地はもう春の装いでいいかしら、それとも、まだ寒いかしら、用心のためにコートも準備して行こうかしら、と考えることも旅支度の楽しい時間なのであろう。日本ばかりでなく海外にも句会を持つ「ホトトギス」である。記念大会もあるから、稲畑汀子さんが参加すべき会は、北から南まで多いと思う。
 
 車で句会へ行くときも運転の最中に句が浮かぶが、テープレコーダーに向かって、浮かんできた俳句を声に出して録音していると、記事で読んだことがあった。同じ「ホトトギス」の中の異なる句会へ出席する場合には、同じ俳句を投句したりはしないから、つねに頭の中に俳句が渦巻いているのだろう。

■2句目

  三月の水をあつめに水はしる  鎌倉佐弓 『現代歳時記』成星出版
 (さんがつの みずをあつめに みずはしる) かまくら・さゆみ

 北国でも、雪解けの頃になると解けた水は、木の葉の雫となって幹を伝って、下へと落ちてゆく。小さな流れとなった水は、川へ流れて合流し、水量を増しながら、大きな流れになってゆく。その時期が三月である。
 
 「水をあつめに水はしる」は、どういうことだろう。雫という一滴の水が木々の葉から落ちてくる。木々から落ちた一滴の水は、次々と落ちてくる水と合流して、さらに低い方へと流れてゆく。このように、だんだんと合流しながら増してゆく水の姿が、「水をあつめに水はしる」姿となって、読み手の目に見えてくるのかもしれない。
 あつめることも、はしることも、能動的な水の意思である。