第八百二十七夜 高浜虚子の「落椿」の句

 平成19年の春号は、10句の投句は椿の句だけにしようと考えた。まずは茨城県南の椿を探した。大通りから一歩はいると、古いお屋敷が並んでいる。広い庭には、梅、椿、枝垂桜の老樹がゆったりと植えられていた。通りからでも見ることはできるが、家人を見かけたときには、声をかけて庭を散策させてもらった。
 
 この春号には牛久沼の小川芋銭亭の裏口から住井すえ居までの椿も詠んでいる。4メートルもありそうな椿の高垣がつづき、さらに椿の高垣に沿ってゆくと、牛久沼が眼下の竹林越しに覗くことができる。
 このとき詠んで、「花鳥来」に発表した次の句は、師の深見けん二先生から褒めていただいた。
 
  落椿ひとすぢ炎ひきながら   みほ
  通り過ぐ耳のうしろを椿落つ  々

 今宵は、「椿」の作品を紹介してみよう。

■1句目

  落椿投げて暖炉の火の上に  高浜虚子 『高浜虚子全集』
 (おちつばき なげてだんろの ひのうえに) たかはま・きょし

 掲句は、大正14年、東京から福岡県小倉の櫓山荘で開かれた高浜虚子一行の歓迎俳句会でのことである。皆が句を案じている最中に、暖炉の上に活けてあった椿が一輪落ちた。多佳子は何気なくそれを火にくべた。燃えている暖炉の火の上に落ちた椿の赤に印象を受けた虚子は、すかさず〈落椿投げて暖炉の火の上に〉と詠んだ。
 
 椿のうつくしくはかない命を詠んだ虚子の句に惹かれた多佳子は、小倉住在の「ホトトギス」の俳人・杉田久女に俳句の手ほどきを受けることになり、やがて多佳子も「ホトトギス」に投句するようになった。
 
 櫓山荘は、建築家橋本豊次郎の邸であり、この日の出来事がきっかけとなって、俳人となる橋本多佳子は、豊次郎の妻である。
 
 夫・建築家橋本豊次郎の仕事で大阪に転居したのちは、大阪に住む「ホトトギス」の山口誓子に師事するようになる。昭和10年、誓子が「ホトトギス」を離れ、新興俳句運動の最前線となっていた水原秋桜子の「馬酔木」に参加したときも、誓子が「天狼」を創刊したときも、多佳子は誓子と行動を共にした。
 
 誓子の元で切磋琢磨した多佳子は、誓子から十七文字という短さの中での、緊密な構成力を学んだのではないだろうか。
 やがて多佳子は、昭和を代表する女流俳人として、星野立子、中村汀女、三橋鷹女と共に「四T」の一人となってゆく。
 
 橋本多佳子が虚子の「ホトトギス」の俳人となり、やがて昭和を代表する女流俳人として、星野立子、中村汀女、三橋鷹女と共に「四T」の一人となってゆく。その最初のきっかけが、多佳子の邸の櫓山荘であり、一輪の落椿であったことが、なんともゆかしいではないか。
 
■2句目

  ひとつ咲く酒中花はわが恋椿  石田波郷 『酒中花』
 (ひとつさく しゅちゅうかは わがこいつばき) いしだ・はきょう

 「酒中花」は、江戸時代からある古典品種の八重の椿。紅覆輪品種としては一番古く、名の由来はお酒に酔ってほんのり赤くなったイメージからである。樹木派といわれ、椿好きの波郷がとりわけ愛したのがこの酒中花であった。波郷は練馬区谷原に住み、広い庭を椿の園のようにしていたという。
 
 筆者の私も、昭和60年ころから両親と一緒に谷原に住み始めた。父はことに石田波郷の句が好きなので、波郷の住んでいた地に住むことを喜んでくれた。私は父と、波郷の住んでいたのはどこかしら、と探しまわった。波郷が、昭和44年に亡くなっていたことは知っていたが、酒中花も植えて慈しんでいたであろう家屋敷も処分されていた。
 しかし、探しまわっていたとき、「俳人石田波郷居跡地」と書かれた立札を見つけることができた。きっと多くの波郷ファンが、このあたりかしら、と懐かしんで探すことがあるのだろう。