第八百二十八夜 山口誓子の「流氷」の句

 山口誓子は、明治34年(1901)京都市に生まれ、母が自殺したため外祖父に育てられ、外祖父の仕事の関係で樺太(サハリン)へ渡り、小学校、中学校と過ごし、のち京都第一中学校を卒業した。妻は山口波津女、妹はホトトギス同人の下田実花で、ともに俳人である。
 大正8年に京都の旧制三高に入学し、日野草城、鈴鹿野風呂らの京大三高俳句会に入会した誓子は、大正9年よりホトトギスに投句をはじめた。大正11 年には東大法学部に入学し、この年水原秋桜子や中田みづほらが再結成した「東大俳句会」に入会して、東大在学中の東京在住の4年間、高浜虚子に直接指導を受けることになる。
 それより以前に、京大三高時代の誓子は、京都で行われた虚子歓迎句会で虚子に出会っている。誓子は、その句会で虚子選の一番に読み上げられたが、披講で名乗り出た誓子をしづかな微笑をもって眺めたその時の虚子の眼を「いまだに忘れない」と、随筆集『宰相山町』の「ホトトギスの人々」に書いている。
 すでに活躍していた水原秋桜子のことは、京大三高俳句会で秋桜子の弟滋から聞いていて、誓子は東京へ行ったら秋桜子とともに勉強しようと決心していた。虚子の指導する「ホトトギス」には、後に、山口青邨が昭和3年の講演で名づけた「四S」の秋桜子、高野素十、阿波野青畝、誓子をはじめ、富安風生、川端茅舎、松本たかし、池内たけしなど第二期黄金時代を築く作家たちが犇めいていた。

 今宵は、山口誓子の第1句集『凍港』から作品を紹介してみよう。


  流氷や宗谷の門波荒れやまず  山口誓子 大正15年「ホトトギス」
 (りゅうひょうや そうやのとなみ あれやまず) やまぐち・せいし

 次の作品は、第一句集『凍港』は昭和7年の刊行で、大正13年以来の虚子選を受けた作品群である。

  流氷や宗谷の門波荒れやまず 「ホトトギス」大正15年3月号、『凍港』
  七月の青嶺まぢかく溶鉱炉  『凍港』
  たゞよへる海髪のひしめく鰊群来 「ホトトギス」大正15年7月号、『凍港』 

 大正15年のホトトギス雑詠句評会で、虚子は1句目についてこう述べている。
 「即ち此の作者の男性的な感情が、宗谷海峡をつかまえて詩の国の一劃においたような感じがする。(略)またわが俳句の新境地に鉄の草鞋を踏み入れた一方面の句として特に認めていい。」
 また、虚子は他の雑詠句評会ではこうも言った。
 「この作者は平凡な白湯を飲むような景色、感情には興味を持たない。」

 誓子は、2句目の「溶鉱炉」の他に「韃靼」「熊祭」「鰊群来」「凍港」など今までの俳句でみられなかった素材拡大、言葉の研究、調べの研究を通して「新しい表現様式」に向かって歩を進めた。
 大学時代を東京で過ごした誓子は、大正15年に大阪へ戻り、住友本社へ入社した。ホトトギスへの投句は続けたが、日頃接する俳句仲間は虚子や東大俳句会ではなくなり、関西の日野草城、鈴鹿野風呂のいる京大三高俳句会が主となっていた。新興俳句運動といわれるのは、昭和6年の秋桜子のホトトギス離脱がきっかけであるが、京大三高俳句会や東大俳句会の若年知識層が、自分たちの時代性や心に適う俳句を作りたかったことが根底にある。

 俳句もまた、感情を詠まなくてはならないと考えていた誓子は、好きな短歌の連作に倣って、俳句による連作の試作をはじめた。昭和6年作のこの連作は、若い女房が走馬燈に灯をともそうとしたとき誤って燃やしてしまったという内容で、「青」が一連のイメージカラーとなり、一句一句が起承転結となって、順に次の句へとのりうつる。誓子が俳句の連作でやりたかったことは、短歌の連作のように一首から次の一首への、この「のりうつり」の趣であった。

 誓子の考える俳句の連作は、一句を詠むだけでは満ち足りなくて、さらに一句、また一句と連ねないではいられない衝動に駆られた単作俳句を何句か合成したもので、一句は独立性を持ちながら、合成することで更に大きな詩を得るというものである。

 誓子は『凍港』の跋で、昭和5年以降を、次のように述べた。
「多くの場合連作の形式によって、新しい{現実}、新しい{視覚}に於いて把握し、新しい{俳句の世界}を構成せんとしつつある時期である。」
 素材をいろいろな角度から作句して数句を連作として組み立て、ダンスホール、キャンプ、スケートリンク、メーデー、法廷の幻想などの近代的な素材を俳句にとりこんだのは誓子の功績である。

 虚子は『凍港』の序で、誓子が新しい俳句を開拓してゆく過程を、次のように述べた。
 「従来の俳句の思ひも及ばなかつたところに指をそめ、所謂辺境に鉾を進むる概がある。」
 「又俳句は如何に辺塞に武を行つても、尚且つ花鳥諷詠詩であるといふことも諒解するであろう」と結んだ。
 誓子はこのようにして、ホトトギスの虚子の許で客観写生と花鳥諷詠を学びつつ、ホトトギスを離れた秋桜子たちと同じ新興俳句の目線で、俳句の挑戦をつづけていった。