第八百三十二夜 深見けん二の「紅梅」の句

 3月11日に、「3・11」「東日本大震災」のことを書こうと考えていたが、腸閉塞の手術後2日目の犬のノエルに心を奪われていて、当日は書くことができなかった。
 
 ところが昨夜、寝入りばなのことだ。ドドーンと揺るがすような地震で飛び起きた。わが家の黒ラブのノエルは、私のベッドの上で寝ているから安心なのか、なにが起こっても悠然として、たじろぐことはない。
 だが、初代の黒ラブのオペラは違っていた。そおっと近づいてきてベッドに飛び乗り、枕元へきて、私のおでこにオペラのおでこをくっつけてきた。しかもその日の朝、室内では決してしたことのない粗相を、ウンチをドアの前にしたのであった。

 動物には知らせたいという、予知能力が備わっているのであろうか。
 
 東日本大震災は、今から11年前になる。2011年3月11日14時46分頃に、三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130キロ付近で、マグニチュード9.0であった。
 今朝の地震は、2022年3月16日午後11時36分頃であった、マグニチュードは7.4、震度は、震源地では6強、茨城県では5弱であった。
 
 「3・11」「東日本大震災」のことは、絶対に忘れてはいけないことであったことを、思い知らされた今朝の大きな地震であった。

 今宵は、「梅」「紅梅」の作品をみてみよう。

  紅梅や心離れぬ師の恙  深見けん二  『花鳥来』
 (こうばいや こころはなれぬ しのつつが) ふかみ・けんじ
 
 昭和62年、紅梅が咲き満ちている頃のこと。園の梅林を吟行し、いつものように句を案じていたが、池の回りを歩きながら匂うような紅梅を観ていても、なんにつけても心をよぎるのは、いま病院に臥せっている師・山口青邨の病のことである。掲句はこうう考えていいのであろうか。
 
 そのような病状であった山口青邨が、翌63年の12月15日、96歳で永眠された。
 
 筆者の私は、青邨が亡くなられて4ヶ月後、青邨先生の弟子の深見けん二先生に、カルチャーセンターで師事するようになったのである。けん二先生は毎回、教室の最初の10分ほどは高浜虚子と山口青邨両師のことについてお話され、作品をプリントにして配ってくださった。
 
 けん二先生にとっては師を亡くされた大きな節目の時期に、私にとって俳句のスタートという節目に、生徒として居合わせたことは不思議であり幸せであったと感じている。
 
 その後、けん二先生は「花鳥来」を創刊主宰され、私も会の一員となった。令和3年9月15日、深見けん二先生は99歳でお亡くなりになった。あと半年で百歳になられる日を目前にして・・。
 
  天上の師は百寿なり梅ほつほつ  みほ
  
 これからは弟子の私たちが、深見けん二俳句を学び直してゆく。高浜虚子と山口青邨の作品を、けん二先生が、手とり足とりして教えるのではなかったように・・。
 自ら考えて学ぶという教え方をされてきたはずの私たちが、しっかりしなくてはならないのだと思っている。