第八百三十四夜 高浜虚子の「辛夷(こぶし)」の句

 辛夷(コブシ)の花が満開になった。私の住む茨城県守谷市の守谷市役所に、コブシの大樹が何本も植えられている。コブシの白は、
木々の花の少ない枯れ色の中で、まさに鮮やかな春の魁(さきがけ)だ。

 この季節になると、満開になる前の、白い蕾が木々を覆いはじめる頃から、市役所には用がなくても見に行っている。

 昨日までは、銀色の柔毛にくるまれ、枝いっぱいに光っていた筆の形の苞(ほう)が、今朝は、その苞の先っぽが割れてつるんとした乳白色の蕾をのぞかせていた。
 コブシの蕾たちは、俳人の川端茅舎が言ったように、「ふくよかな天使の足」が一斉に踏み出そうとするステップのようであった。

 コブシはモクレン科で、名前の由来は、実の形が握り拳に似ているからである。同じ頃に咲くハクモクレンは、白い花びらに見える部分が9枚、コブシは6枚だという。

 今宵は、「辛夷(こぶし)」を紹介してみよう。

  立ちならぶ辛夷の莟行くごとし  高浜虚子 『五百句』
 (たちならぶ こぶしのつぼみ ゆくごとし) たかはま・きょし

 俳句結社「花鳥来」がスタートして間もない頃、深見けん二先生は、高浜虚子の作品『五百句』の鑑賞を、有志が集まって輪講形式で自分の担当する句を、調べて原稿にして発表し、お互いに意見を述べ合って、次回までに「花鳥来」に掲載できる形に仕上げた。
 資料を集め、作品の鑑賞を考えて、文章にすることの難しさに苦闘したが、けん二先生が必ず出席くださったことで、私は脱線せずに虚子の道、けん二の道を歩みつつある今があるのだと思っている。
 虚子の第一句集『五百句』から158句を鑑賞し、書籍として、深見けん二監修「虚子『五百句』入門」を仕上げることができた。
 
 この作品は、私が担当した句の1つである。当時まとめた鑑賞文を掲載させていただこうと思う。
 
 桜前線が気になる頃、銀色の苞が割れて、乳白色の絹の肌触りの莟が、太陽の当たる南面から膨らみはじめる。自ずから莟の穂先は北向きとなり、勾玉を逆さにしたような形、あるいは雫のような形で、鈴なりの莟は群舞のごとく整然とした姿で「たちならん」でいる。
 虚子は、この莟の、真っ白ではない「白」と、子どもの握り拳に似ているその形から、「汚れを知らない清純」「言葉にしないままの決意」「崩すことのできない矜持」「あふれる希望」の姿を感じた。虚子は、今にも一斉に咲き出しそうな辛夷の莟を「行く如し」と叙した。一歩を踏み出すようなその姿は、自分自身への「さあ、はじめよう!」という決意表明かもしれないし、優しく他人の背を押して、エールを送っているようにも見える。
 川端茅舎の名鑑賞がある。(「花鳥巡礼」『川端茅舎句集』角川文庫)
 「無数の辛夷の莟がふくよかな天使の足のように虚空に並列する。足、足、足、足、足、足、足、足。其れは今にもステップを踏み出すだらう。春天は眩しい。」
 辛夷の莟の形を捉え、見事に詩的に鑑賞した。

  てつぺんのてつぺんまでの白辛夷  浦部 熾 『春陽』
  俳誌「花鳥来」
 (てっぺんの てっぺんまでの しろこぶし) うらべ・おき

 熾さんは、大好きなコブシを毎日のように眺めていた。句意は、下から順に咲き出したコブシは、ある日とうとう、てっぺんまで白く染め上げられていましたよ、となろう。
 「てつぺん」は、頂上とか一番上をあらわす言い方であり、「てつぺんのてつぺんまでの」と重ねたことで、10メートル以上にもなる大樹であるコブシが、下から順に咲き、とうとう天辺までも白い花で埋められてしまった咲き様がつたわってきた。
 
 この作品のすばらしさは、「てつぺん」だけで白辛夷の満開の姿を見せてくれたことで、他の表現を混ぜていないことである。