昨日の陽気に、娘は、物言わぬ犬と目を合わせてしまったらしい。「散歩に行こうか?」の一言で、ノエルは耳をぶるんと振って尻尾を振りはじめている。私も車の後部座席でノエルの監視役としてお花見に行くことになった。
車で10分ほどの近さに、キリンビールの大きな工場があり、敷地をぐるりと囲んで桜の木が植えられている。何本あるのかしら・・満開ではないが、七分咲きの見事な景観である。
しかも東京にいた頃とちがって、道路際に車を置いても、パトカーが通りかかっても、たちどころに「不法駐車ですよ!」とは言われない。満開の頃、桜吹雪の頃にまた来てみよう。
春はいいな!
今宵は、「春眠」の作品をみてみよう。
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春眠の身の閂を皆外し 上野 泰 『佐介』
(しゅんみんの みのかんぬきを みなはずし) うえの・やすし
掲句は、上野泰の第一句集『佐介』集中の作品である。
句意は、春ののどかな季節の、快い眠りに誘われての昼寝か、うたたねをしたときのことで、快い眠りに誘われて、心身をゆるめきった状態のことを、「身の閂を皆外し」と、詠んだのであろう。
「身の閂を皆外し」の措辞は、感覚的であり主観的のように思えたが、そうではなかった。「閂」は道具の一つで、門や戸をしっかり閉めるための横木である。そこから、体中を閉めていた横木を外す、という具象的で客観描写に徹した言葉なのであった。
季題「春眠」が句のモチーフとなったことで、泰の特異性が活かされた作品になったように思う。
上野泰の家業は、代々続く上野運輸商会という輸送業であり、人さまの大切な荷物を預かって、別の人さまへ届けるという、責任ある忙しい仕事である。たまの休日は、緊張していた心身を存分に開放させたいのであろう。
上野泰の舅が高浜虚子。泰の妻は虚子の六女の章子である。
虚子は、『佐介』の序に次のように書いている。
「新感覚派。泰の句を斯う呼んだらどんなものであらう。
泰の句に接すると世の中の角度が変つて現はれて来る。
世の中を一ゆりゆすつて見直したやうな感じである。
泰の眼に世の中が斯く映り、泰によつて世の中が斯く表現されるのである。
此頃の特異な作家としては西に朱鳥あり、東に泰がある。」
虚子の序文は、つねに作家の特徴と作家の進むべき道を過不足なく看破している。
『佐介』の句を見てみよう。
春着きて孔雀の如きお辞儀かな 昭和21年
干足袋の天駆けらんとしてゐたり 昭和22年
打水の流るる先の生きてをり 昭和23年
冬灯蹴つ飛ばし吾子生れけり 昭和23年
春眠の身の閂を皆外し 昭和25年
古書店で入手した『佐介』の最初の頁を開けると、一句目の句がただ一つ、華やかな孔雀のお辞儀のごとくに出合った。頁を繰るごとに又一句ごとに、背筋がぞくっとするような、虚子の云うように「一ゆりゆすつて」の感覚をおぼえる句集であった。
1句目、「干足袋」は、元々かっちりした形の足袋が爪先を上に干されて、「天駆けらん」と、今にも空を翔け出さんばかりの姿なのだ。
3句目、「打ち水」の地を流れる様を「生きてをり」と捉えた。「生きているもの」は決して人の思い通りには動かないものだが、水も、あらあらという感じで思いも寄らぬ方角へ流れてゆく。
4句目、「冬灯を蹴つ飛ばし」たのは、戦争が終わってから、元気に誕生した長男の城太郎だ。この作品によって、泰はホトトギスで初巻頭を得た。
5句目が、今宵の「千夜千句」に紹介した「春眠の身の閂を皆外し」の作品である。
泰の作品が、泰が独自に掴みとった言葉で詠まれているところが、新感覚派たる所以であろう。