第八百四十五夜 夏目漱石の「菫(すみれ)」の句

 早春のまだ寒い頃の雑木林や山道や畦道の片隅に、よく見かけるのが立壺菫(タチツボスミレ)。高さ10~20センチの花茎に濃青色の五弁の花がひっそりと可憐な風情で咲いている。
 
 茨城県南に越してからは、利根川の土手や河川敷で見かけた。スミレを摘むのは楽しいから、母や子どもたちと競うようにして摘んた。さらに、スミレの花を引っかけ合って、茎が千切れた方が負け、という「相撲取草」の名の由来を知った私たちは、大人になって初めての、引っ張りごっこ遊びをした。
 持ち帰ってガラスのコップに活けるが、野にあるスミレではない。やはり野に置け、が似合う花であろう。

 「スミレ」の名は横から見る花の形が大道具の「墨入れ(墨壺)」に似ている、と植物学者牧野富太郎が言ったことによる。ひと口にスミレといっても、ツボスミレ、タチツボスミレ、ノジスミレなど種類は多い。

 今宵は、夏目漱石の「菫」の作品をみてみよう。

  菫程な小さき人に生まれたし  夏目漱石 『漱石句集』
 (すみれほどな ちいさきひとに うまれたし) なつめ・そうせき

 明治30年2月、正岡子規に投句した40句の中の一句。当時の投句は「何句まで・・」という決まりはなかったようで、この時の漱石は40句を投句をし、子規は作品の下に○や◎を付けて戻してくれたようである。
 
 明治29年、高浜虚子は長兄政忠の病気のために松山に帰省していた。松山に教師として赴任していた夏目漱石と二人で、神仙体の句をつくっていた。のちに、『漱石氏と私』の中で、虚子は次のように書いている。
 「或日、漱石氏は一人で私の家の前まで来て、私の机を置いてゐる二階の下に立つて、『高浜君。』と呼んだ。(中略)下をのぞくとそこに西洋手拭ひをさげてゐる漱石氏がたつてゐて、又道後の温泉に行かんかと言つた。(中略)その帰り道に二人は神仙体の俳句を作らうなどと言つて彼れ一句、これ一句、春風駘蕩たる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾ふのであつた。」
 
 次の作品が、漱石と互いに詠んだ時の、虚子の詠んだ神仙体の句である。
  怒涛岩を噛む我を神かと朧の夜
  羽衣の陽炎になつてしまひけり
  朧夜や空に消行く鞭の音
  
 掲句の「菫程な」の句が、神仙体の句というのではないが、この頃に詠まれた作品であり、イギリス留学に行く前の漱石の心の弾みと柔らかさが感じられるようである。
 
 句意は次のようであろうか。
 早春のまだ寒い頃、野路のそちこちに菫を見かけた。菫はひと塊になって咲いている一本一本の菫を、漱石は「なんと小さくて可憐な花であろうか! わたしも小さくて可憐な存在でありたいものだなあ!」と、思ったのであろうか。それとも女人の何方かが過った作品であろうか。
 漱石の俳句の、対象の切り取り方の斬新さは、背後にある大きな小説の世界を感じさせてくれるからなのであろう。
 
 『漱石全集』から作品を紹介してみよう。
  腸に春滴るや粥の味
  叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな
  ぶつぶつと大いなる田螺の不平かな
  在る程の菊抛げ入れよ棺の中
  永き日や欠伸うつして別れ行く

 漱石のイギリス留学は、明治33年から35年までであった。イギリスに着いてからの漱石は異国になかなか馴染むことなく、神経衰弱気味であったと言われている。友であり俳句の師でもある正岡子規が、明治35年9月17日に亡くなったという報せをロンドンで受け取った。
 
 子規の生前には、虚子は小説家を目指していて「ホトトギス」を継ぐことを断っていたが、明治31年より、「ほとゝぎす」は虚子の発行となり、34年には誌名を「ホトトギス」に改名した。
 明治38年、夏目漱石に依頼した原稿「吾輩は猫である」が人気を博し、伊藤左千夫、長塚節の小説の掲載も始まった。漱石は、朝日新聞社に入社し、やがて作家の道へ進んでいった。低迷していた「ホトトギス」は一気に部数を伸ばすことになった。

 胃潰瘍のため大正5年12月9日、死没。