子どもが小さい頃、子ども連れで友人宅を互いに行き来しては、お喋りを楽しんでいた。都心の銀座とか大学時代に遊んだ渋谷や青山に小さな子どもを連れて行くことはできないからだ。子ども同士も仲良く遊んでくれる。
まだ幼い年子の二人を連れての運転は危ないので、一人を実家に預けて、時折気分転換をしていた。夫の方はといえば、仕事の忙しい時期で、しかもお酒好きで、月曜日から金曜日までは午前様であった。
出社するパパに、子どもは「パパ、いってらっしゃい!」ではなく、「パパ、こんど、いつくるの?」と言っていた。流石の夫も苦笑いをしていた。
二番目のヒヤリ・・やはり車で走っているときのことだ。このことを書くと、母親失格と言われそうだが・・。
友人宅へ遊びに行った帰り道、環状八号線と合流して左折した、その時だった・・!
その瞬間、右側のドアがぱっと開いたのだ。当時の車は、運転席でロックしておけば万全というわけではなく、子どもでもドアノブのロックを外せた。きっとあちこと触ったりボタンを押したりしているうちにドアが開いてしまったのかもしれない。
50年前の環状八号線だったからか、夜の9時頃だったからなのか、幸運なことに道は空いていて、すぐに、環状八号線の曲がり角で停車しても、事故を起こすことはなかった。
ドアが開いてビックリした私が振り返ると、さっきまで遊んでいた子どもたちは後部座席にゆうゆうと眠っていた。横たわっていたお陰で、開いたドアから落ちることはなかったのだ。
このことは、夫にも、母にも伝えていなかったと思う。ブログ「千夜千句」は、告白のようで、過去を振り返る心の旅の一面がある。
今宵はもう一夜、「木の芽」の句を加藤楸邨の作品から見てみよう。
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隠岐や今木の芽をかこむ怒涛かな 加藤楸邨 『雪後の天』
(おきやいま このめをかこむ どとうかな) かとう・しゅうそん
楸邨作品で惹かれる句の一つである。頂戴した石寒太著『わがこころの 加藤楸邨』を開き、第14章の「隠岐から佐渡へ」を読み返した。隠岐の島に渡ったのは、昭和16年の3月、楸邨36歳の木の芽時であったという。この年は日本が第二次世界大戦に巻き込まれてゆく年であり、時代は暗く重苦しかった。
俳句界にも、思想的な弾圧の手がのびていた。楸邨にある反戦の意志は当局から睨まれていたという。この頃、『芭蕉講座』を執筆中であった楸邨は、芭蕉の当時の気持ちを体感するために隠岐に渡ろうと思った。芭蕉の孤心をつきとめることは、承久の乱に敗れた後、後鳥羽上皇(後鳥羽院ともいう)が送られ、その生涯を閉じた島でもある。その折の後鳥羽院の「ひとりごころ」にふれることである、とゆきついたからであると、石寒太さんは書いている。
句意はこうであろうか。
楸邨が訪ねたという3月の隠岐の島は、日本海特有の荒海の怒濤の響きのさ中であり、断崖は今、全島の木々の芽吹きがいっせいに始まっているという賑やかさであった。後鳥羽院上皇が島流しとなり命を閉じた地であるが、奔騰する怒濤に囲まれた楸邨の心もまた、悩み事が渦巻いていた。
だが、この隠岐の風景に浸っていると、楸邨の心はいつの間にか、隠岐の海の怒濤と同化してゆき、やがて労られるかのように、木の芽のうす緑の色に縁どられてゆく。
「主客浸透」の究極のありように悩んだ第二次世界大戦中、俳句の発想契機を求めて芭蕉研究を始め、その中で「真実感合」の理念を確立した。「自己の真実と対象の真実とが一体化する堺を、自己の俳句発想の基盤としたい」という真実感合の理念は、楸邨の「ひとりごころ」「まこと」へ収斂していった。
楸邨の俳句の「まこと」というのは、「こころ」と「こと」と「ことば」とが不可分に密接になる三位一体の状態であるという。
最後の句集『怒濤』の次の句、私はが大好きである。
天の川わたるお多福豆一列 『怒濤』