第八百四十八夜 山口青邨の「春陰」の句

 三番目のヒヤリは、どれにしようか? 小さな出版社の経営は、毎月毎月を越えることが大変だった。よくぞ何十年もの間、ドキドキしながら越えてきたものだと、夫にではなく、神様に御礼が言いたい・・!
 たまらなく辛い時、編集、経理、雑務を一手に引き受けている私は、一人で車にとび乗って、当時、すぐ近くだった練馬インターチェンジから関越道に入り、軽井沢の往復400キロ余りを走り、すこしだけ心爽やかになって4時間後には戻ってきた。
 
 毎月を越すことのヒヤリなのだろうか。だがこのヒヤリはこれからもあるかもしれない。軽井沢からの急カーブだらけの下り道で濃霧に巻き込まれた時の、あのときほど神経を使った運転の、ぞっとした怖さのヒヤリを三番目にしておこう。一番目も運転にまつわる話だった。

 現在は76歳、あと160日で77歳の喜寿を迎える。最近の運転のとみにおだやかになったこと・・! 私もこのような時期を迎えることができるようになったのだ。

 今宵は、「春陰」の作品を考えてみよう。

  春陰や大濤の表裏となる  山口青邨 『乾燥花』昭和29年
 (しゅんいんや おおなみのおもて うらとなる) 
 
 この作品は、今回やっと景が読み取れたように思った。
 
 句意はこうであろうか。寄せくる大濤には表と裏がある・・海岸に立って眺めていると、海上では上下運動をくり返している波は、海岸の近くで大濤となってザブーンの響きとともに寄せてくる。寄せては返す、そのくり返しをスローモーションで捉えてみれば、大濤の表と裏なのであった。
 
 「山口青邨君は科学者である。」と、師の高浜虚子が、第一句集『雑草園』の序に書いたように、明治25年に盛岡市に生まれた青邨は東大採鉱学科を卒業し、東大教授となり、名誉教授の称号を受けた採鉱冶金学の学者である。 
 俳句では、虚子から客観写生を鍛えられ、四Sの秋桜子、素十、誓子、青畝、その後の草田男、たかし、茅舎等と切磋琢磨した時代が青邨にはあった。

 ひたすら真実と美を求めて観察(オブザベーション)を怠らない作句法は、複雑なものを単純化して一つの法則を作る科学者の方法と同じであった。

 大濤の動きの、ある一面に絞ったことで、季語の「春陰」らしさが出たように思う。春陰らしさとは、心のもの憂さという暗さであり、そうした陰りが垣間に見える言葉かもしれない。

 若い頃の私は、といっても40代にはなっていたが、春の季語の中でも翳りを帯びている「春陰」は好きな季語であった。句会では屡々用いていたが、機会があれば第2句集にと考えて、大目に選んで準備してある、第1句集『ガレの壺』以降の作品を読み返したが、入っていなかった。どうやら使ってみたい季語も、その時々で、変化しているようだ。