第八百四十九夜 深見けん二の「朧」の句

 平成11年12月、わが家は東京と練馬区から茨城県取手市のマンションに引っ越した。なぜ茨城県だったかというと、不動産業を手広くやっていた夫の知人の建てたマンションの空きがあったからであった。
 次に越したのが、現在の守谷市の一軒家である。茨城県南に越してから、25年になるが、関東平野のど真ん中の空はまるくて広い。この地に東京在住の友人たちが集ってくれて句会を作った。俳句会の名は「円穹(えんきゅう)」であった。
 
 日本で、人気度から言えば、下から数える方が早いほどの茨城県だが、私たちは気に入った!
 
 不思議と私は、「えっ、東京を離れるの? イヤだなあ!」とは思わなかった。新天地は、どの道ももちろん初めての道であるところがいい。まずは車に母を乗せて、地図を片手に、毎日のように走り回っていた。25年前の車はどれでもロードマップが付いていたわけではなかった。運転手の隣に乗る人が、地図係であった。
 気に入ったのは、大きな流れの利根川があり、牛久沼、蛇沼、洞峰沼などの水辺が多かったこともある。暇さえあれば、母と一緒に、沼や川へ行った。黒ラブの1代目オペラと母を車に乗せて、遊び回った時期があった。
 
 今宵は、「朧」「朧月」の作品を見てみよう。

  城山も放送局も朧かな 深見けん二 『蝶に会ふ』平成14年 
 (しろやまも ほうそうきょくも おぼろかな) ふかみ・けんじ
 
 この作品は、愛媛県松山市のNHK松山放送局の番組「BS俳句王国」に、主宰として深見けん二先生が出演した時のものである。松山放送局は松山城がすぐ近くにあり、全国から毎週、収録に集まる俳人たちが必ず立ち寄る名所である。
 
 句意はこうであろう。季語は「朧」なので、おそらく松山放送局での収録を終えた夕方、けん二先生は、タクシーで空港に向か途中に、見た城山が、朧の中に聳えていたにちがいない。
 
 けん二先生は何回も出演されて、主宰として真ん中に座っていらした。この私も2度出演している。1度目はけん二先生のご推薦で出演した。その時の主宰は鍵和田秞子先生。2度目は、私たち夫婦の古い友人である大分県の「蕗」主宰の倉田紘文先生のご推薦により、「BS俳句王国」に2度出演させていただいた。
 
 平成11年、1度目の「BS俳句王国」出演、主宰は鍵和田秞子先生。
  ずる休みしたる障子の明るさよ
  白鳥来とはずがたりのキー叩く
  
 平成22年、2度目の「BS俳句王国」出演、主宰は倉田紘文先生。 
  いづくより子規の眼光冴返る
  蝌蚪孵る幹をはなるる花のごと
  
 いずれも、けん二先生は観てくださり、頑張ったねと言ってくださったが、2度目の時は、俳句も褒めてくださり、俳人らしい風格が出ていましたよ、というお言葉もいただいた。

 松山局が「BS俳句王国」を制作することになった際、その企画立案に加わり、初代主宰(司会者)として活躍した八木健さんの企画で、スタジオに句会場をつくり句会の模様をそのまま放送するという斬新な企画で人気を得た。
 収録後の打ち上げで、切絵の特技も見せていただいた。当時の蝸牛新社で編集した『日本の名短歌100歌』『名句もかなわない子ども俳句170選』の挿絵は八木健さんの切絵である。
 
 収録後、帰宅した私は八木健さんに御礼状を出した。照れくさいような御返事を戴いた。
 
   あらきみほをたたえるうた・たけし
  
  あたらしき蝸牛句帳にやはらかき
  らむぷのもとで句をつぎぬ
  きらきらと光を放ちたることば
  みわくするかにうごきけり
  ほっとなる俳句をめざしゐるひとよ
 
 深見けん二先生にとっても、多くの出演者にとってもそうであろうが、私にとっても、松山放送局の「BS俳句王国」は呼ばれて嬉しく、手厚いもてなしに心も綻び、懐かしい思い出になっている。