第八百五十夜 富安風生の「朧月」の句

 春は水蒸気が多いので、朧で春の月もぼんやりとかすんで見える。南方からあたたかい湿気の多い空気がやってきて、夜、地面付近の空気が冷え、上空がそれより高い温度だと、気温の逆転層が出来て、その下に霧があらわれ、月がおぼろにかすむという。
 
 おぼろは語源的には、「おほ」(「おぼ)」で、もともとぼんやりして不明瞭な状態に言う。また、うちふさいだ、ぼんやりした気分にも転用したという。情緒豊かな季語を用いての朧や朧月の用例は、平安朝になって現れはじめたという。
 
 筆者の私が、「朧」「朧月」などを実感したのは、茨城県取手市に越してきてからで、10分も歩けば、利根川の土手があり、土手を下れば広い河川敷が広がっている。母と犬のオペラと一緒によく歩いた。やはり大河という水分の多さが関係しているのであろう。

 今宵は、「朧」の作品を紹介しよう。

  浄瑠璃の阿波の鳴門の朧月  富安風生 『富安風生全集』
 (じょうるりの あわのなるとの おぼろづき) とみやす・ふうせい
 
 人形浄瑠璃文楽の舞台はテレビでは何回も観たが、1度だけ、東京・国立劇場小劇場で、空いていたので、前から3列目の席で観たことがある。俳句作品を鑑賞するには、日本の芸能全般を知っておくことが必要だと思っていることもあってで、折々に観てきた。
 
 舞台では、物語を語る太夫、三味線の伴奏、人形遣いの「三業」が息を合わせて表現する総合芸術である。人形は人形遣いの半分ほどの大きさであった。とくに、白塗りの顔が美しかった。
 演目は「傾城阿波の鳴門」。三味線に合わせての語りは情緒たっぷり。朧月夜の下で、女は男に捨てられるといった物語の高揚とともに、三味線の撥(バチ)のうごきと人形と人形遣いのうごきが徐々に激しくなってくる。
 
 風生の作品の、「朧月」は俳句の季語であるが、浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」の中でも、傾城(=女郎)の身の上のおぼろなる状態を表すという、重要な背景でもあるのだろう。

  星はらむ水のおぼろとなりにけり  中川宋淵 『新歳時記』平井照敏編
 (ほしはらむ みずのおぼろと なりにけり) なかがわ・そうえん

 臨済宗の禅僧である中川宋淵は、外出から戻り、入り口に置かれた手水鉢で手を洗おうと屈むと、手水鉢には、ぼんやりした星の光のようなものが映っているのを見るばかりであった。
   
 手水鉢の風もなく静かな水面には、はっきりと空の星が映っているのではなく、ぼんやりした光として水にある。それを宋淵は、「星はらむ水」であり「水のおぼろ」であると捉えた。すなわち「星はらむ水のおぼろ」であった、という句意になろうか。