第八百五十一夜 石田勝彦の「朧」の句

 朝方は小雨が降っていたが、犬のノエルの散歩を中止するほどではなく、いつもの半分の距離で「もう帰ろうか?」と言うと、すぐに回れ右をしてくれる。昼前には雨は止み、雨催(あまもよい)の雲の垂れ込めた一日となった。
 
 今が春だからであろうが、秋の霧が立ちこめた時にも似ている。朧に似ているが、朧は、春の夜の万物がおぼろにかすむことをいい、朧月を代表とし、鐘の音、灯影などにもいう。昼は霞、夜は朧で、水蒸気の多い春の代表的な季題である。

 今宵はもう一回、「朧」の作品を紹介しよう。

■1句目

  老人を引つぱる海の朧かな  石田勝彦 『現代歳時記』成星出版
 (ろうじんを ひっぱるうみの おぼろかな) いしだ・かつひこ
 
 「老人を引つぱる」とは、「老人が引っぱられてゆく」ということであろうが、老人が海の朧に引っぱられてゆく光景は、なにか恐ろしさが待っているようでもある。海の朧が、老人の乗った船の舵取りをしてあげることではないだろう。
 
 海の朧が引っぱってゆくことは、即ち、死への誘いのような恐ろしさではないだろうか。傍から見ていると感じることのできる、危険の予感のようなものである。

■2句目

  おぼろよりおぼろへ向けし舳先かな  栗島 弘 『現代歳時記』成星出版
 (おぼろよりおぼろへむけし へさきかな) くりしま・ひろし
 
 たとえば、夕おぼろの池や沼などでボートに乗っている光景を感じる。かつて大学時代の部活の夏の合宿で長野県にある松原湖でのこと、活動の前の早朝、活動後の夕食前には、ボートに乗った。漕手が男性なので、ボートにはまるで男女のペアのごとく二人づつ乗って湖心へ漕ぎ出した。
 
 俳句を始めてから季題の「おぼろ」を覚えたので、当時は、夕方のぼうっと靄っている景色が「朧」であることは知らなかったが、なんだか素敵なムードを感じたことを思い出した。
 
 辺り一面の朧の中を漕ぐことが、「おぼろよりおぼろへ向けし舳先」であった。

■3句目

  どんとうつおぼろの濤の遠こだま  長谷川素逝 『ホトトギス雑詠選集 春の部』
 (どんとうつ おぼろのなみの とおこだま) はせがわ・そせい
 
 掲句は、夜の大海原の濤の音であるが、夜のおぼろの濤の姿を、私たちが昼間に見るように目にすることはない。ただ「どんとうつ」濤音がこだまとなって聞こえてくるだけである。「どんとうつ」だけが音という実態によって、濤の在り処を知らせてくれている。
 
 その濤もおぼろであり、遠くから「こだま」のように聞こえてきましたよ、という句意であろう。だが、「おぼろ」も「こだま」も、どちらも実態のないことばを重ねただけで、素逝は濤を表現したのた。
 
 長谷川素逝は、「京大俳句」「ホトトギス」同人。阿漕」を創刊・主宰。戦争を詠んだ句集『砲車』で一躍有名になった。日中戦争勃発に際して砲兵少尉として大陸で転戦した間に6回も「ホトトギス」の巻頭となった。次の句がある。
  馬ゆかず雪はおもてをたゝくなり
  脚切つたんだとあふむひて毛布へこめり
  みいくさは酷寒の地をおほひ征く

 「朧」は、私の好きな季題の一つである。