第八百五十六夜 あらきみほの「夜桜能」の句

 一番最初に薪能を観たのは、平成6年、靖国神社能楽堂での奉納靖国神社夜桜能であった。それまで興味を持ったことのない「お能」を何故観ようとしたのかと言えば、高浜虚子の晩年の弟子の深見けん二先生の元で俳句を学び、結社「花鳥来」に所属したからであった。
 けん二先生は、まず虚子を学ぶことを会員に勧め、有志9人へ虚子研究の輪講会を主導してくださった。「花鳥来」11号(1993年秋号)から47号(2002年秋号)の9年間かけて、虚子の第一句集『五百句』の主な作品を158句を調べて『虚子「五百句」入門』の一冊に纏めることができた。
 
 虚子の俳句に触れ、虚子の文章に触れる中で、代々池内家が能楽が好きであることを知った。一番先に覚えた「桜」の作品が「咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり」であった。長くなったが、靖国神社能楽堂での奉納靖国神社夜桜能を観たいと思った理由である。
 
 私の句集『ガレの壺』には、平成6年から8年まで観た、夜桜能の句を載せていた。「花鳥来」の仲間にも、そして深見けん二先生の龍子奥様にもお声をかけてご一緒したことがあった。
 
 「薪能」は、4月上旬の奉納靖国神社夜桜能、10月上旬の静岡県三保の松原での三保羽衣薪能、8月中旬の中尊寺薪能の三ヶ所で観た。能楽堂ではない魅力が、夜気(やき)の暗く静かなけはいの中での厳かな能であった。
 
 私が能楽の舞台を観ていた頃、随筆家の白洲正子の書物に触れることで能楽の初歩の知識を得ることができた。また、晩年の白洲正子の姿を夜桜能をはじめ、幾つかの舞台の観客席に拝見することができた。「藍生」主宰の黒田杏子氏が白洲正子の車椅子を押して座席に着いたのは、国立劇場の大きな舞台で、山本東次郎の狂言「月見座頭」であった。
 
 「薪能」は夏の季題であるが、「夜桜能」に含む「桜」の春を季題として詠んでいる。

 今宵は、あらきみほの句集『ガレの壺』から紹介させて戴こう。
 
■中尊寺薪能

 薪能を観た最初は、岩手県盛岡市の中尊寺薪能であった。山形で友人たちと一夜過ごしてまんじりともできず、そのまま中尊寺へ車を飛ばし、中尊寺境内の白山神社能楽堂へ滑り込むようにして開演時間に間に合った。だが運転の疲れとお喋り疲れで、初めての薪能の笛と太鼓とお能の詞章の、なんとも単純な一本調子は、演目の終わるまでうつらうつらの夢の中にいたような時間であった。
 
 友だちに話したら、初めてのお能体験はそのようでいいのよ、と言ってくれた。この時は俳句はできなかった。

■奉納靖国神社夜桜能

 1・街騒のここ忘れもの夜桜能    平成6年
 2・笛の音やはつはなの枝ゆれはじむ 平成6年
 3・篝火をまあるく越ゆる花吹雪   平成7年
 4・青白きはなびらかかる緋の小袖  平成6年
 5・拝殿の花冷え深きなかにをり   平成8年

 1の句を鑑賞してみよう

 靖国神社は電車で行けば中央線の水道橋駅から徒歩でそう遠くない場所にある。広い駐車場に車を停めて境内に入り、野外能楽堂で夜桜能を観た。俳句のための贅沢であることを承知で、毎回、最前列の席を予約した。夜桜能の始まる前に、著名人の挨拶があり、或る年は、内閣の鳩山由紀夫であった。総理大臣になる前であったと思う。
 
 水道橋は都会の真ん中だが、夜桜能の始まる頃には広大な靖国神社は参拝客もなく、街騒も届くことなく静まりかえっていた。なんだか、神の忘れもの、の隅っこに居るように感じていた。
 やがて、ピーヒョロロという能管の横笛、つぎに小鼓、太鼓が奏でられ、橋掛かりという長い廊下を渡って能役者が登場する。
 
■三保羽衣薪能 

 1・三保といふわが名と同じ秋の浜 平成8年
 2・能管のとぎれて崩る秋の浜   平成8年
 3・篝火に月ノ小面穢を帯びて   平成8年
  
 「三保」は静岡県の三保松原(みほのまつばら)のことである。平成8年と9年の秋に続けて観に行った。三保の羽衣薪能は、毎年秋に開催される。演目は能「羽衣」ともう一曲、そして狂言である。
 富士山の裏側をぬけると早めに着いた夫と私は、三保の松原のつづく秋の浜を波音を聞きながら歩いた。
 
 句を紹介してみよう。 

 1は、「三保」の地名はわが名「みほ」に通じてしまう・・。
 2は、天女が舞い降りたという三保の松原で、能「羽衣」を観ることができたことに感謝である。
 3は、能「羽衣」で付けた面は「月ノ小面」という能面であったという。

 平成9年に刊行した、あらきみほ句集『ガレの壺』を読み返してみると、よく遊んだ、宝ものの時代であった。