第八百五十七夜 浦部熾の「白鳥帰る」の句

 わが家から車で30分ほど西へゆくと菅生沼の南端が見える。長い沼で、私たちは「延命院」の小さな立札を見逃さないように走り、左折する。毎年、菅生沼の白鳥に会いにゆくが、この小ドライブの目的は1つ増えて、必ず、延命院の榧(カヤ)の木の胴塚へ立ち寄るようになった。胴塚というのは、戦に敗れた平将門の首は、京都の墓に、将門の胴体は坂東市へ運ばれ、家来たちによって葬られたという。
 
 すぐ近くの白鳥飛来地である菅生沼で、白鳥たちを眺めにゆく。1月の正月から、そろそろ来ているかしらと行ってみる。コハクチョウがほとんどだが、ある年、オオハクチョウを見かけた。やはり立派だ。堂々としている。
 行くと、話しかけてくる人がいて、喧嘩している白鳥とか、ここに白鳥を見かけない間は、餌場のある広い沼の方に行っているなど、教えてくれる。
 
 3月になると白鳥は北のシベリアへ帰ってゆくことを知った。この去る瞬間に会いたいと、白鳥を追いかけて数年後の3月に菅生沼へゆくと、やけに見物人が多い。
 「白鳥帰る」に立ち会いたいと毎日通ってくる人たちであった。この日、菅生沼の白鳥たちは、5、6羽とか、8羽ほどのグループになって沼の上を旋回しては沼に降りたりしていた。
 見物人が言った。「そろそろだな! こういう飛び方をする日は、いよいよ白鳥は北へ帰る日だと思うよ!」
 本当だった。旋回をくり返したあと、白鳥たちは北の方角に飛んで行ってしまった。
 
 今宵は、「白鳥帰る」の作品を紹介しよう。

■1句目

  余震なほ白鳥帰る空があり  浦部熾 俳誌「花鳥来」より  
 (よしんなお はくちょうかえる そらがあり) うらべ・おき

 掲句は平成23(2011)年の作で、余震とは、「3月11日」の東関東大震災の後もつづいた揺れである。マンション真下の中津川で晩秋から仲春まで白鳥を間近にする熾さんは、北帰行の白鳥の棹を、触れんばかりに仰いでいたという。
 熾さんはきっと「白鳥さんたちはいいな・・帰ってゆく北のシベリアの地があり、しかも自分で飛んでゆけるのですもの! でも私は、地震があっても逃げることはできないのよ!」と、思っていたのであろう。
 
 平成19年、熾さんは住み慣れた埼玉県の地を離れ、お姉さまの住む岩手県盛岡市に行き、およそ4年間を過ごしていた。
 盛岡に移転して1年後の平成20年、「花鳥来」の仲間3人と青森までのドライブ旅行をした帰りに、私たちは熾さんのマンションに立ち寄り、テーブルで一服し、中津川の河原を散策した。夏であったので白鳥はいなかった。

 東関東大震災には、盛岡に住んで4年目に遭遇したという。入浴中であったご主人は飛び出るや「おまえどこにいるんだ!」と叫び、熾さんは「テーブルの下よ!」と叫んだ。
 やがてマンションの揺れが収まり、夜中の2時頃に空が晴れ、窓ガラスから見る暗闇の街並の上には驚くほどの大粒の星があった。普段見た事もないほど星粒がびっしり瞬いていたという。「テーブル」とは、3年前に盛岡のマンションでお茶をしたときのものだ。

 その後もしばらくは余震がつづいた。私の住む茨城県南でも、4月になっても震度5弱の余震に驚いたことがあった。

■2句目

  白鳥二羽湖光を曳いて帰りけり  石原八束 『蝸牛 新季寄せ』
 (はくちょうにわ ここうをひいて かえりけり) いしはら・やつか

 白鳥は美しい。首を伸ばし、身体を平らに、黒い脚をまっすぐに伸ばして、飛んでゆく。二羽というのは番(つがい)であろう。子がいれば子も一緒に並んで一家揃って、夏から初冬まで過ごす北のシベリア地方へと、長い旅になるけれど帰ってゆくのである。