第七十九夜 石原八束の「雪」の句

  鍵穴に雪のささやく子の目覚め  『雪稜線』 
  
 石原八束(いしはら・やつか)は、大正八年(1919)―平成十年(1998)山梨県生まれ。父は「雲母」同人の俳人石原舟月。八束は子どもの時代から俳句に親しみ、昭和十二年、飯田蛇笏に師事、「雲母」に投句。戦後は、父舟月の家にしばらく「雲母」を移して編集に携わる。「秋」を創刊主宰。

 幼い頃からの病弱という宿痾をもつ八束は、死や闇や陰影に向けられ、象徴による「内観造型」論を唱えた。その目指したものは花鳥諷詠的な写生を超えた奥行を詠むことであった。〈原爆地子がかげろふに消えゆけり〉や〈死は春の空の渚に遊ぶべし〉など、作品には死への不安感がつきまとう。
 
 掲句を鑑賞してみよう。
 
 句意は次のようであろうか。ふと目覚めると、子は鍵穴からの様子がふだんと違っていることに気づいた。鍵穴は小さいけれど、今朝の鍵穴は白っぽくて明るい。あっ、雪がふっている! 雪は降る音というのはないけれど、逆に、雪は辺りの音を消してしまう静かさがある。
 そして子は、いつもと違う無音を「雪のささやく」と感じたのだ。きっとしばらくは、鍵穴から雪の降るさまを覗いていたのだろう。

 この作品から、終戦の年に生まれた私は、そういえば昔は鍵穴から室内を覗くことができたことを思い出した。学校から帰ったとき母親が留守で鍵が掛かっていると、鍵穴から覗いたことが確かにあった。なんという懐かしい光景であろうか。
 
 もう一句紹介しよう。
 
  蓮枯れてしまへば風の笑はざる  『藍微塵』

 車で三十分ほど走れば、千葉県にある手賀沼を覆わんばかりの蓮田に会える。蓮の一年を追うために、折々に蓮葉、蓮の花、枯蓮、蓮の骨を見に出かけるが、このように捉えた作品は珍しい。蓮は、葉が大きくて豊かに水面を覆っているが、葉が破れても、枯蓮になっても、風があるかぎり揺れている。

 私は、葉と葉に隙間ができたときに蓮は揺れなくなると思っていたが、この句は風の側から詠んでいる。風は、ぶつかるものがあると嬉しくなって笑う。蓮の葉にぶつかるとき風は喜んでいたのだ。
 やがて、一面に蓮の骨となり、それも次第に溶けてゆき、そして風の笑いも消えた。