第八十夜 川崎展宏の「かたくり」の句

  かたくりは耳のうしろを見せる花  川崎展宏 『観音』

 鑑賞してみよう。

 カタクリの花は、萼のところで曲がり、うつむいた形をしている。雌しべ雄しべは見えないから、居並ぶカメラマンたちは地に伏せて写真を撮っていた。その花の形が、まさに展宏の詠んだ「耳のうしろを見せる花」である。「春の妖精」とも呼ばれる花で、首筋のほっそりした若い女性、冠を載せた王女、下向きかげんに歩く舞妓さんなど思い浮かぶ。でも「見せる花」だから、可憐だがどこか自信のある姿態でもある。
 
 季題「片栗(カタクリ)」は、五月頃、木々の芽吹く前の落葉の残る雑木林の林床で見かける花。六枚の紅紫色の、花被片(萼や花びら)があり、根(鱗茎)は深く、その根から片栗粉というデンプンを採る。

 野草の好きな父に、かつて毎年のように誘われたのが、周囲を湧水が流れている雑木山のカタクリ公園。父に教わったのは、雑木林に守られてカタクリは育つということ、花の咲く頃の雑木林は裸木だから、たっぷり日差しが届くこと、鱗茎が地下で休む時期には新緑は日陰を作り、秋の落葉はカタクリの栄養になることなどであった。花期は短いし毎年微妙に異なるから、父は自転車で事前調査をして一番美しいカタクリを見せてくれた。

 川崎展宏(かわさき・てんこう)は、昭和二年(1927)―平成二十一年(2009)、広島県呉市生まれ。国文学者。俳句は加藤楸邨に師事し、森澄雄の「杉」創刊に参加。「貂(てん)」を創刊主宰。
 「私は加藤楸邨門に在って、つよく花鳥諷詠に関心をもっている」という国文学の教授で、正岡子規、高浜虚子の研究家。著書に『高浜虚子』『虚子から虚子へ』、エッセイ集『俳句初心』があり、「花鳥諷詠とは」を問いつづけている。特徴は、能楽との関係から花鳥諷詠を考察していることであろうか。

 『俳句初心』の中で、展宏は次のように言っている。
「花鳥諷詠は、言葉で舞い遊ぶ文芸なのであった。花鳥と舞い遊ぶのである。この場合の花鳥とは、花の開落、鳥の去来のごとく生死してゆく同等の存在として舞い遊ぶものである。」
「花鳥諷詠は花鳥に、人間の切なさの思いが託されたものでしょう、と思っている。」

 私は、この「切なさ」にはっとした。カタクリの花もそうであるが、木も花など植物のしたたかさ、鳥や獣たち動物のしたたかさ、どの命も、苦労を重ねて生き抜いて一瞬の美しさを人間に与えてくれる。その姿は「切なく」「哀しく」「愛(かな)しく」存在している。
 俳句は季題がある。季題に心を託して詠むことは自身の心を詠むことと同じであるという虚子の教えを、わが師・深見けん二から教えられている。もう一句紹介しよう。

  鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる