第八百六十夜 中村草田男の「春陰」の句

 今宵は、もう一句「春愁」と「春陰」の作品をみてみよう。この2つの季語に、違いがあるのか、あるならば、どのような違いがあるのか考えてみよう。

■春陰

  春陰の国旗の中を妻帰る  中村草田男 『中村草田男集』
 (しゅんいんの こっきのなかを つまかえる) なかむら・くさたお

 春は、晴れの日や雨の日や曇の日と、変わりやすいとも言われるが、春にも暗い感じの曇り空の日がある。

 「春陰」は、春の曇り空のことを述べる作品に用いるという。桜の頃に多い曇天の「花曇」と似ているが、春陰はもっとひろく使われて、どこか暗い感じがある季語である。
 
 掲句は、国旗を掲げる休日であるので、建国記念の日、または天皇誕生日であろうか。このような光景は、ニュースや映画の場面でしか観たことはないが、国民の義務であり、婦人会の役員たちが家々を確認していたようである。

■春愁・1

  春愁のいとまなければ無きごとし  皆吉爽雨 『新歳時記』平井照敏編
 (しゅんしゅうの いとまなければ なきごとし) みなよし・そうう
 
 この作品は、季語「春愁」とはどのようなものかを、よりわかりやすく17文字の残りの12文字の中でとき聞かせてくれているのではないだろうか。
 春愁は、春ゆえに心に入りこんでくる、メランコリックな気分であり、わけもなく心をかすめる淡い悲しみであり、だれとも心がうまく通じあうことのない孤独の思いであるかもしれない。
 
 しかも、そのような余計なことを考える暇も時間もないならば、「春愁」に取り憑かれることなどないのとよく似ているということであろう。

■春愁・2

  昔日の春愁の場木々伸びて  中村草田男 『長子』
 (せきじつの しゅんしゅうのにわ きぎのびて) なかむら・くさたお

 「昔日の春愁の場(にわ)」までの12文字は、高校時代から東大独文科に入学して、西欧の文学に親しみ、ニーチェ、ヘルダーリン、チェーホフ、ドストエフスキー等の作家たちに興味を持ち、独特な感性と強烈な思想に影響をうけた時代と言ってもいいのではないだろうか。また、この時代が草田男の「春愁」であったと言ってよいのではないだろうか。
 
 「春愁の場(にわ)」と「場」の表記にしたのは、草田男の若き日々が春愁に溢れていたために、「場」と表記して「にわ」と読ませるルビを付したのであろう、
 
 青春時代の長い思想彷徨の末にしばしば神経衰弱にかかった草田男であった。行き詰まった精神生活の打開の道として、草田男は叔母の紹介で俳句の大御所高浜虚子と出合い、「東大俳句会」「ホトトギス」で、自然と向き合い、客観写生の道を歩みはじめた。虚子に師事を始めたのは29歳の東大生で、昭和4年のことである。そして、一旦休学した後国文科に転科した。
 
 草田男はホトトギスへ、難解な俳句を投句していた。そのような草田男に、虚子は、ホトトギスに収まりきれない詩人の魂を見てとり、「生活や心の苦悩を俳句にすることも俳句の近代化というのであろう」とし、俳句の道は一つではなく百川もあると述べた。
 草田男もまた、草田男を見ていてくれる虚子の心を感じとっており、難解な表現の破調句でも、虚子の選を信じて、全身で俳句をぶつけた。
 草田男俳句の特徴は、内から脈動する生命のリズム、内在律からの破調といわれている。
  
 「其の句を作った時の自分の感じに一種の手応えがあれば、即ち真の実感から生まれた句であったらきっと先生に判って頂ける」という草田男の言葉があるが、多くのほとんどのホトトギスの会員の声は、草田男に厳しいものであったという。