第八百六十一夜 相生垣瓜人の「春筍」の句

 牛久沼の丘の上に、画家の小川芋銭が建てたアトリエ「雲魚亭」がある。もう20数年前になるが、東京から茨城県取手市に転居したときから、暇さえあれば茨城県南を車で走り回っていたが、一番多く通ったのが牛久沼の丘の上の小川芋銭居であった。入口から竹林が多く、竹林は牛久沼へ逆落としするかのごとく急斜面を覆っている。
 
 小川芋銭居は、いつの季節もいいけれど、辺りの竹林の美しい春から初夏の「竹の秋」という古い竹の葉を落とす季節が殊にいい。「春愁」のなんとも言えぬ哀感のある薄暗い雰囲気がたまらなく惹きつける。奥には小川芋銭の絵をもとに造られた、黙念としている大きな河童像がある。河童というのは実在していた生き物なのか、書を読んでも不明だが、芋銭居に来ると、居たに違いないと思わせてくれる。
 
 この芋銭居でタケノコを見つけても掘ってはいけない。タケノコ好きの夫はムズムズするようだが諦めて、筍掘りは、守谷の自宅の近くの山林の持ち主の了解を得て、毎年、孟宗竹を3本ほど戴いて掘ってくる。
 
 昨日がその日で、わが家のキッチンは孟宗竹の巨大な竹皮だらけになり、収集用のゴミ袋何枚分にもなった。

 今宵は、「春の筍」「竹の秋」の作品をみてみよう。

■春筍

  春筍の地下一尺にあらむとす  相生垣瓜人
 (しゅんじゅんの ちかいっしゃくに あらんとす) あいおいがき・かじん

 「春筍」の読み方は、「しゅんじゅん」または「はるたけのこ」と読む。近くの山林のタケノコ掘りに付いていったとき、地上に出ているタケノコの尖った部分は10センチもなかった。
 周りから掘って掘って、地下一尺というほどの30センチも掘ったのですよ、という句意になろう。
 わが家で掘ってくるタケノコと同じくらいだ。確認できた。

■春笋

  春笋の息しづめゐて后陵  秋山まさゆき
 (しゅんじゅんの いきしずめいて きさきりょう) あきやま・まさゆき

 「春笋(しゅんじゅん)」の「笋」は、たかんな、と読み、タケノコの古名であると知った。静かな墓所にも春は訪れており、うす緑色の草の芽たちも顔を出している。

 掲句は、天皇の妻である皇后の墓所である広い后陵には、春のタケノコが何時顔を出そうかと、息を潜めて、その時を窺ってるようですよ、という句意になろうか。

■竹の秋
  
  一山の僧定に入る竹の秋  中川宋淵
 (いっさんのそう じょうにいる たけのあき) なかがわ・そうえん
 
 「竹の秋」は、竹は春に葉が黄ばんできて散りはじめるので、他の植物が枯れて葉を散らす秋に似ていることから言われるようになったもので、春の季語である。

 「一山」とは、 一つの山の同じ境内にある本寺・末寺などすべてを含めた寺院の総称であり、また、そこにいるすべての僧も含めていう。京都の清水寺、南禅寺、平等院、貴船神社など、「一山」と呼ぶ寺院は他にもたくさんある。
 
 「定に入る」とは、外界との交渉を断って、精神統一の修行をする。それが禅定(ぜんじょう)に入ることであるという。一山での宋淵の禅僧修行は、ちょうど竹の葉の散りはじめる音のする春のことであった、という句意となろう。

 中川宋淵は、山梨県向嶽寺で得度した禅僧である。まだ修行中であった24歳の頃だ。宋淵は、富士山に暫く籠もったのち寺へ帰る前に飯田蛇笏の門を叩き、自作の一句を蛇笏に問うた。その句を見た蛇笏は直ちに入門を許可したという。

 今宵の作品は、平井照敏編『新歳時記』から引用させていただいた。