第八百六十三夜 宇咲冬男の「春暁」の句

 昨日の朝はよく晴れていた。明日は「春暁」の俳句を紹介しようと、わくわくしていた。

 中国唐代(689年-740年)に孟浩然(もう こうねん/もう こうぜん)という詩人がいた。高校時代の国語の授業で、孟浩然の五言絶句
「春暁」を習い、暗記したことがあった。次の4行詩である。一行目はきっと誰もが覚えているだろう。
 
  春暁  孟浩然
 春眠不覚暁(しゅんみん あかつきを おぼえず)
 処処聞啼鳥(しょしょ ていちょうを きく)
 夜来風雨声(やらい ふううのこえ)
 花落知多少(はなおつること たしょうしる)

 今宵は、「春暁」「春あかつき」「春の暁」の作品をみてみよう。

  春暁や砂漠が貌を持ちはじむ  宇咲冬男 『乾坤』
 (しゅんぎょうや さばくがかおを もちはじむ) うさき・ふゆお

 掲句は、客船トパーズ号に乗り世界一周海の旅を体験したときの作。冬男が春に居た場所は、中近東かアフリカなどの砂漠地帯であった。春暁の砂漠は、冬男には、人間の貌のごとくに表情をもった「貌(かお)」のように見えた。「持ちはじむ」であるから、朝の太陽が地平線から貌を出してから太陽の位置が変わるにつれて、また気温が上がるにつれて、砂漠の表情が変わってゆくことに気づいたのだ。
 
 私たちが、テレビや写真集で見る砂漠は、決してのっぺらぼうではない。風に吹かれて固まった砂には鋭い角度があり、広大な砂漠は、美しい波状にかたどられてくる。その条件のひとつひとつが重なってくると、砂漠の表情となり、砂漠の貌になるのだという。
 
 「砂漠が貌を持ちはじむ」は、なんと素敵な表現であろうか。
 
 宇咲冬男は、昭和6(1931)年埼玉県熊谷市上中条天台宗別格本山常光院に生まれる。大正大学文学部哲学科卒業。産経新聞社会部記者等を経て文筆活動に入る。客船トパーズ号に乗り世界一周海の旅を体験。俳誌『あした』主宰。連句協会顧問。日本文化振興会より国際芸術文化賞受賞。

  春暁や人こそ知らね木々の雨  日野草城 『花氷』
 (しゅんぎょうや ひとこそしらね きぎのあめ) ひの・そうじょう

 句意を考えてみよう。
 
 春の朝早く、まだ人は眠りの中にいるころ、草城は目を覚まし、窓の外を眺めていると、音もなく降っている春雨が、木々を濡らしていた。「人こそ知らね」は、人は知らないだろうけれど、という意味であり、気づいたのは自分一人であった、という優越感に近い人知れぬ嬉しさがどこか漂っている。

 日野草城は関西出身の俳人だと思っていたが、明治34(1901)年、東京上野の生まれである。鉄道会社勤務の父が韓国の最初の鉄道事業、京釜鉄道の路線敷設に携わることになって転職したため、草城は5歳で釜山へ、7歳から京城で過ごした。明治43年に日韓併合した京城で、草城は総督府京城小学校、中学校に学んだ。
 
 京城での中学校時代から草城は、俳号静山という父の影響で俳句を作り始めていた。ホトトギスへは17歳から投句していたが、この頃には一句も採られることはなかったという。
 
 大正7年の京大三高入学を機に、草城は京都住まいとなった。その8月、18歳でホトトギス初入選している。翌大正8年には、神陵俳句会を結成し、9年に鈴鹿野風呂、五十嵐播水と出会い、「京大三高俳句会」へと発展した。そこへ山口誓子が一年後輩として参加した。  ところてん煙の如く沈みをり
  春の夜やレモンに触るる鼻の先
 このような草城俳句は、この頃に虚子が進めていた大正後期のホトトギスで、モダンで異彩を放つ才気煥発ぶりであった。
 
 掲句の春暁の作品は、正確にはどの時期に詠まれたものか、第1句集『花氷』は四季別の分類なので、私には調べがつかなかった。だが作品には、若き日のモダンさというより、「人こそ知らね」という和歌の詞によるからであろうか、落ち着いた雰囲気である。