第八百六十四夜 永田耕衣の「春の暮」の句 

  誰彼時
  
 晩春の今頃は暑くもなく、寒くもなくちょうどよい気候で、勤め帰りもそこはかとなく明るい。このような夕暮時を「たそがれ時」というが、これは「あそこを行くのは誰だろう」と見えるか見えないくらいの明るさを言い、昔は「誰彼時」と書いたという。こんな夕暮は何となく紫色が似合う気がする。
 紫色は日本人に好まれる色のようだ。特に中年層に人気がある。
 清少納言も「枕草子」の中で「すべて何もかも、紫なるものは、めでたくこそあれ。花の糸も紙も」と言っている。
 (略)
 紫色の誰彼時、帰りの寄り道は紫麗人のいる所ですか? (平沼洋司著『気象歳時記』蝸牛社)
 
 今宵は、「春の暮」の作品を紹介しよう。

  いづかたも水行く途中春の暮  永田耕衣
 (いずかたも みずゆくとちゅう はるのくれ) ながた・こうい

 永田耕衣の作品に触れるのはひさしぶりである。小さな出版社を経営していた蝸牛社で、俳句シリーズ『秀句三五〇選シリーズ』の刊行をスタートした。編集に携わる私は、楽しみながら学びながらの本造りであった。
 その中で、ネットで「つれづれ俳句」を毎週、いろいろな俳人、いろいろな俳句を綴ってきた。現在毎日ネット配信しているブログ「千夜千句」の前進である。また書籍『図説 俳句』、『小学生の俳句歳時記』なども生まれた。
 
 こうして、さまざまの俳人の作品から子ども俳句まで、関わりながら、流れる水のまにまに進んでいる私であるが、さて「いづかたへ」向かおうとしているのか定かではない。せめて、「水行く途中」でありたいと願っている今が、私の春の暮であろうか。

  門ひとつ残りつくづく春の暮  高柳重信
 (もんひとつのこりつくずく はるのくれ) たかやなぎ・しげのぶ

 高柳重信の作品の見せ方は凄い。1行詩にとどまらず、 3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱・実践した。金子兜太らとともに「前衛俳句」の旗手となった。私は、目をまんまるにして愉しんだ。独特な表現は、メタファー(隠喩)であって、比喩だとはっきり表現しない比喩であるという。
 
 こうした幅広い世界にチャレンジする場所を与えてくれたのが、『秀句350選』シリーズの編集においてであった。高柳重信には山川蟬夫(やまかわ・せみお)の筆名で、掲句のような1行詩の俳句も詠んでいる、『山川蟬夫句集』がある。私は、私も好きな女性俳人中村苑子(なかむら・そのこ)と、互いに作品に惹かれたことが始まりで、2人は最終的な事実婚となったことが素敵だと思っている。
 このような前書を置くと、重信の作品は、素直に文字を追っただけでは、読み取ったことにはならないと感じてしまうのだが・・、鑑賞を試みてみよう。
 
 季語「春の暮」には、二通りの意味がある。一つ目は春の季節の終わりであり、二つ目は春の一日の夕暮れ時である。
 
 私は、掲句の「春の暮」は、春の日の夕暮れ時のこと、もう日は沈んでいるのに、暮れ残っているかのごとく、どこか明るさの感じられる時間帯のことだろうと考えてみた。
 
 もう日は沈んでしまっているのに、通りがかった一件の家の門は、がっしりした姿で立っていた。春の暮の太陽は、だんだん夏に近づくにつれて、完全に日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態が長くなる。
 
 そうした状態を、つくづく考えてみると、やはりそうなんだという気持ちから生まれた作品なのであろう。

  春の暮老人と逢ふそれが父  能村研三
 (はるのくれ ろうじんとあう それがちち) のむら・けんぞう

 能村研三さんのお父様は、私が俳句を始めた当時の「沖」主宰の能村登四郎であった。カルチャーセンターで俳句を学び始めた時、深見けん二先生は、ホトトギス以外にも活躍している俳人の作品を、毎回、プリントして全員に配って、お話をしてくださったが、確か、私が入会した最初のプリントが能村登四郎であった。
 
 掲句は、ある春の日の夕暮れ時、勤務を終えて夜の句会へ向かう研三さんは、一人の老人を見かけた。その老人が、父であることに気づいた。お父さんは、おそらく午後の句会を終え、二次会も終えた帰りであろう。
 句会へ向かう息子と句会から帰る父。二人はともに俳人であったのだ。

 今回、紹介した作品は二句ともに成星出版『現代歳時記』から、引用させていただいた。