第八百六十六夜 安住敦の「春深し」の句

 今日から5月。4月よりもわくわくするのは、新緑から万緑へだんだんと、否、ずんずんと日々の変化を感じることができるからであろうか。犬は地面を這うように嗅ぎ回るのが散歩だと思っているようだけど、なんともったいない散歩なのだろう!
 野原の草もいいけれど、春の草はご馳走サラダかもしれないけれど、広い畑の上に広がっている、茨城県の空はこんなに丸いのよ、なにしろ関東平野のちょうど真ん中にあるのが、守谷市なのだから・・!

 犬に理解できても理解できなくても、犬のお母さん役の私は、老化現象なのか老化防止なのか、ぶつぶつと言葉に出して犬に説明しているのだ。

 今宵はもう一夜、「春深し」の作品を紹介してみよう。

  春深し妻と愁ひを異にして  安住 敦 『安住敦全句集』
 (はるふかし つまとうれいを ことにして) あずみ・あつし

 夫婦とは最も難解な関係であるのかも
 わが家の二人もまったく同じ
 こころを察して気をまわしても
 夫の愁いと妻であるわが愁いとは異なっているのかも
 だったらと、気ままにしていると
 さらにこじれてしまう一日になるのかも
 
 かもかもかも、と
 こうして今日も春深き愁い多き一日が暮れてゆくのかも
 老夫婦とは、かくも思い切りの悪い、ややこしい関係であるのかもしれない。
 

  まぶた重き仏を見たり深き春  細見綾子 『伎藝天』
 (まぶたおもき ほとけをみたり ふかきはる) ほそみ・あやこ

 東京に住んでいた頃、上野や新宿や渋谷で開かれる美術展、絶対に逃したくない戦後初めてというゴッホ展などは、一日の仕事が終えてから出掛けて、滑り込むようにして観た。ミロのヴィーナスは、50年前の山手線のぎゅうぎゅう詰めとよく似ていた。ヴィーナス像に向かって歩くのではなく、じりじり押されつつヴィーナスの前に立ったという思い出である。
 
 印象的だったのは、奈良、天平時代の古い仏像、1700年以上も昔に造られた仏像を観た時であった。一点ごとにガラスケースに収められて、暗い照明の中で、生きている御姿のように感じた。どの角度からもなだらかな、やわらかな曲線であった。
 
 掲句は、句集『伎藝天』の中に収められた作品の一つ。この『伎藝天』には〈女身仏に春剥落のつづきをり〉の作品も収められている。句集のタイトルにしたということは、細見綾子は奈良の秋篠寺で観た伎芸天に殊の外惹かれたためであろう。
 
 作品の、下を向いた伎芸天の御顔のまぶたは、ふくよかで、わずかに重く垂れたようにも見える。春深き中での春の愁いの御姿のようにも、沈思黙考している御姿のようにも見える。