第八百七十夜 中村汀女の「幟」の句

  火を盗め     なだいなだ

 パパはお前たちに「盗め」という。しかしこれは至極まじめな話なのである。死んだ人間からであろうと、生きた人間からであろうと、その胸から火を盗め。人間は、他の人間の胸の中に燃えている鬼火のようなものを盗むことによって、はじめて生命を得るのである。ここで盗みは、はじめて素晴らしいものになる。しかし石炭や石油のようなものを他人から盗むかぎりにおいては、盗みはいとわしい。この地上に善人がいても、人類は滅びることをまぬがれぬであろうが、この種のぬすびとが絶えぬかぎり、精神は滅びぬであろう。
 (林望監修、あらきみほ編『毎日楽しむ名文365』『日本の名随筆98 悪』作品社より)

 今宵は、「幟(のぼり)」の作品をみてみよう。

  はたはたと幟の影の打つ如し  中村汀女 『中村汀女全句集』
 (はたはたと のぼりのかげの うつごとし) なかむら・ていじょ

 私の住む茨城県守谷市けやき台の遊歩道には、毎年、4月末になると長々と綱を張って鯉幟がかけられている。風の日はお腹いっぱいに風をはらんで元気よくなびいている。はたはたと音も立てていて、なかなかの壮観である。
 
 掲句は、鯉幟がはためきながら影を地に落としているという。風が強ければ、影も強くはためき、影が互いに打ち合っているようであったという。
 中村汀女は、鯉幟の、幟に紐で付けられた鯉の一匹一匹が打ち合うところに焦点を定めた。そうしたことで、その一匹一匹が地に落とす黒い影もまた、はたはたと打ち合っていたというのだ。

 「幟」は、 端午の節句に飾られる五月幟(のぼり)のこと。

  鯉幟風に折れ又風に伸ぶ  山口誓子 『山口誓子全集』
 (こいのぼり かぜにおれまた かぜにのぶ) やまぐち・せいし

 山口誓子は、昭和3年、高浜虚子が「客観写生」「客観描写」を説いた頃、ホトトギスで互いに切磋琢磨した水原秋桜子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝の4人を、山口青邨が名づけた「四S」の作家の1人である。
 4人の中で、最も都会的な俳句を詠み、且つ最も非情といわれるほどの眼で対象に迫るのが誓子の写生であったと言われるが、客観写生の即物的な眼をもっていた。
 
 掲句の、中七下五の「風に折れ又風に伸ぶ」は、じっと見ていると鯉幟は、確かにこんな風な動きをしている。強い風が吹けば煽られて「風に折れ」、風がやわらぐや忽ち「風に伸び」はじめる。このように鯉幟は、風に従って泳いでいるのだ。

  江戸住みや二階の窓の初のぼり  小林一茶 『一茶句集 現代語訳付』
 (えどずみや にかいのまどの はつのぼり) こばやし・いっさ

 「初のぼり・初幟」とは、男児の初節句を祝って立てる幟。また、その祝いをいう。
 
 鑑賞をしてみよう。
 一茶は15歳で江戸に出て、51歳で故郷の柏原に戻ったが江戸住まいの30年ほどの間に俳諧の宗匠になるほどの出世はできなかったが、江戸で俳諧の道で生計を立てていた。
 
 この頃のことであろう。五月の節句には江戸の町を歩いていると、二階の窓に初のぼりが飾ってあるのを見た。この家には子どもが生まれたのだなあ。初のぼりが飾られている。きっと男の子にちがいない。

 こうしたこともあって、一茶は「ちう位なりおらが春」でもいいではないか、という思いから故郷の柏原に戻ったのではないだろうか。