第八百七十一夜 石田波郷の「初鰹」の句 

 初夏と言えば、鰹のたたきが食べたくなる。長崎県島原半島に生まれた夫は、殊の外魚好きで、肉料理はなくてもよいほどである。
 今宵は「初鰹」の作品を紹介するつもりなので、守谷市に新しくできたショッピングモールで、仕入れてくるつもり・・!

 今宵は、「初鰹」の作品をみていこう。

  初鰹夜の巷に置く身かな  石田波郷 『季題別 石田波郷全句集』
 (はつがつお よるのちまたに おくみかな) いしだ・はきょう
 
 石田波郷は、愛媛県松山市の生まれ。師の五十崎故郷とともに昭和5年に馬酔木」に入会。やがて「馬酔木」は水原秋桜子主宰となり、波郷は「馬酔木」の編集に携わった。「馬酔木」を辞した波郷は、昭和12年、石塚友二とともに俳誌「鶴」を創刊し主宰者となった。
 
 俳誌の主宰者というのは、句会の後の二次会が必ずある。句会で意見を言い切れなかったことを、お酒を飲みながら、初鰹の季節には肴として、一気に吐き出す。
 「夜の巷に置く身」・・うーん、なかなか上手い言い方である。都会のど真ん中での句会後の二次会かもしれない。
 
 小出版社を経営していた夫は、著者との打ち合わせが多い。昼間の方が、お互いに頭もシャンとしているだろうにと思うが、打ち合わせは夜が多いことも、そうした職種とも言えるかもしれない。

  御僧は説かず娶らず初鰹  清水基吉
 (おんそうは とかずめとらず はつがつお) しみず・もとよし

 まず鑑賞をしてみよう。
 
 この寺の御住職というのは、普通の御住職とは少々異なっている。人の話にはふむふむと耳を傾けるが、話を聞いたあとに僧侶らしいお説教をする風でもなく「説かず」であるという。本当はそれでいいのかもしれない。憤懣をぶつけた後は、案外に本人の心がすっきりしているものであろう。聴いてくれるだけで有り難いのである。
 2つ目の「娶らず」はどういうことであろうか。「説かず」「娶らず」と2つが並ぶ僧侶は滅多にいるものではなさそうだ。
 
 だが、「質に入れてでも初鰹を食べたがる」江戸っ子だ。面倒なことは嫌いな御僧は、「説かず」も「娶らず」もしてきたが、「初鰹」だけは、なんとしてでも戴きますよ、ということになろうか。

 清水基吉は、大正7(1918)年、東京の生まれ。小説家・俳人。小説「雁立(かりたち)」で芥川賞受賞。俳句を志し石田波郷に師事し、石塚友二・横光利一らに接した。俳誌「鶴」に参加。俳誌「日矢」を創刊、主宰。句集に「冥府」「遊行」など。平成3(1991)年、鎌倉文学館館長。

  一日の光君なりはつかつを  蓼太
 (いちにちの ひかるきみなり はつかつお) おおしま・りょうた

 江戸時代に「はつかつお=初鰹」を食べることのできたのは、江戸幕府の将軍か京都の朝廷の天皇か、超一流の中村歌右衛門など歌舞伎役者くらいであったのではなかろうか。「光君」とは光源氏のことで、紫式部も物語『源氏物語』の主人公である。
 
 掲句は、初鰹を食べる機会に、どのようにして俳人蓼太は巡り合わせたのかわからないが、俳人は、高貴な人に指南することもあったのであろう。
 初鰹を食べることができた一日は、まるで光源氏にでもなったような心持ちでしたよ、となろうか。

 蓼太とは、大島蓼太のこと。享保3年(1718)から天明7年(1787年)の、江戸中期の俳人。〈世の中は三日見ぬ間に桜かな〉の作もある。