昨日の土曜日、もう一度見ておきたいと願っていた五浦(いずら)の六角堂に行ってきた。
きっかけは、夫の荒木が最初に赴任した長崎県立東高等学校で、倫理社会を教え、部活では軟式テニスの顧問をしていた。初めての生徒の一人の佐藤尚君であった。長崎県代表として九州大会に出場した強いチームであったので、荒木が教師を辞めて東京に来てからも、就職で東京に来た元テニス部の生徒たちは、わが家に来ては、テニスの話で盛り上がった。
佐藤君は、茨城県つくば市に居を構え、また時々、境仁志君と一緒に顔を見せてくれるようになった。
五浦では、六角堂に佇むだけではなかった。まず車を止めたのは丘の上であった。鶯の鳴く丘の上を歩きながら、そのどこからも六角堂が見え、海岸が見え、打ち寄せる白波が見えた。五浦の復興工事に携わった時の工事用具や、六角堂の屋根瓦の予備の瓦や綱紐などが置かれた小屋も開けて見せてくれた。全貌を見せてくれたのだ。
五浦に行くことになって、佐藤君が五浦と深く関わってきていたことを、私は佐藤君の資料で知ることになった。20頁のパンフレット「天心・六角堂復興プロジェクト」と、2011年の東日本大震災で流された六角堂と床下まで水に浸かった岡倉天心邸の震災復興工事の、コピー用紙66枚もの膨大な記録写真をファイルにしてくださったのだ。
茨城大学五浦美術文化研究所は、天心偉績顕彰会の会長横山大観から、天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)の寄贈の申し出を受けて1955(昭和30)年に設立されている。※偉績とは、偉大な功績のこと。
六角堂も国の有形文化財であり文化財保護法によって護られている。六角堂の復興プロジェクトは工事は、2011年の東日本大震災直後の5月9日に基金設立が始まり、海底調査、原木の伐採、リフォームと、松井リフォーム(株)による工事契約締結となった。松井リフォーム(株)は、何百年も続きこれからも地球のある限り文化財を護るという難しい仕事をしている会社であり、佐藤尚君はその一員であった。
五浦の六角堂へのドライブは、薄日の射す日で、卯波日和であったとも言えようか。
今宵は、2度目となる五浦で詠んだあらきみほの句を紹介させていただく。
1・走りくる肩いからせて卯波かな
(はしりくる かたいからせて うなみかな)
2・六角堂の壁のベンガラ卯波光
(ろっかくどうの かべのベンガラ うなみこう)
3・夏うぐひす天心邸の裏の山
(なつうぐいす てんしんていの うらのやま)
因みに、五浦を初めて訪れたのは平成19年(2007)の晩春であった。
その折に詠んでいたのが次の句である。日記もつけているが、15年前の日記帳はどこに仕舞っておいたやら。だが俳句を詠んで、深見けん二先生の「花鳥来」に投句し、丸印を頂いていた作品である。当時の私が詠んだ俳句を改めて見直してみると、五浦の光景が目の辺りに浮かぶようである。
1度目の五浦の句
獣の背みせてくづをる春の濤
止むことのなき海鳴や山笑ふ
つつまれて光と風と山ざくら
鶯のまつたきこゑの勿来かな
2度目となる五浦は、1度目と違う角度から詠まなくては意味がない。ノートには何句も認めたが、新しい発見は、今回ご一緒した佐藤尚君のおかげで、2句目の〈六角堂の壁のベンガラ卯波光〉を詠むことができたことだと思っている。
六角堂に近づいた佐藤君が最初にしたことは、屋根の直ぐ下の板壁に触れてみたことである。屋根の直ぐ下の板壁はさらに下部の色よりも濃かった。塗料のベンガラも色褪せするので、何年か毎に塗り替えているのだという。
文化財を護る仕事に携わっている佐藤尚の、瞬時に見せた仕事人の眼であった。