第八百八十夜 石橋秀野の「卯の花腐し」の句

 卯の花は、ユキノシタ科の落葉低木。5枚の花弁をもった小さな卯の花が雪のようにたくさんかたまって咲くさまは、清楚な感じである。野菜づくりがしたくて、夫の借りている畑の近くにも卯の花が一本植えられているが、花の盛りの頃はどっしりした趣さえ感じさせてくれる。
 「卯の花の匂う垣根に 時鳥早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」の歌は、小学校の音楽の時間に教わったのであろうか、卯の花の季節になり、花を見かけるとたちまち、いつの間にか頭の中で歌い出している。
  うのはなの におうかきねに 
  ほととぎす はやもきなきて 
  しのびねもらす なつはきぬ

 今宵は、「卯の花腐し」「卯の花くたし」の作品を見てみよう。

■1句目

  卯の花腐し寝嵩うすれてゆくばかり  石橋秀野 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (うのはなくたし ねがさうすれて ゆくばかり) いしばし・ひでの

 鑑賞してみよう。
 
 秀野は、子がまだ5歳の頃に結核にかかった。痩せて細い身体の秀野が横たわった姿は、「寝嵩うすれてゆくばかり」であった。咲いている卯の花も腐(くた)すと言われる梅雨時、秀野は子を置いて入院することになる。その時に詠んだのが〈蟬時雨子は担送車に追ひつけず〉で秀野最後の作品となった。担送車は救急車のことで、5歳の子は必死で母の乗った担送車を追いかけたという。
 
 秀野の、戦前戦後の生活苦と肺病を得た中での強靭な精神は、子を持つ母としても、捨て身の腹を据えることができたことにもよるのであろうが、じつに強い。のちに秀野は、沢木欣一の結社「風」に「阿呆の一念やむにやまれずひたすらに行ずる」と書いているが、まさに句作に全身を傾けた人であった。秀野には十七文字の俳句があったことで、生き抜くことができ、俳句の道の厳しさを全うできたとも言える
 
 俳人石橋秀野は、文芸評論家山本健吉の妻であった人。若き日、文化学院で短歌を与謝野晶子に学び、俳句を高浜虚子に学んだ。昭和初期は虚子が客観写生を唱導していた時期であり、虚子は「俳句は極楽の文学である」と言った時期であった。
 極楽の文学とは、俳句を詠むことは、生活苦を忘れ、病苦を忘れ、たとえ一瞬でも極楽の境に心を置くことができる、という意味である。
 
 「卯の花腐し」は、卯の花の咲く5月の頃に降る雨をいうが、梅雨のはしりである。「腐し」とも「降し(くたし)」とも表記し、「ちらしくたす心」と考えられてきたという。鬱陶しい雨の季節ではあるが、雨を、美しい言葉の季語「卯の花腐し」と言われると、心がゆたかになるようではないか。
 
 秀野の言葉の美しさと描写の的確さは、与謝野晶子と高浜虚子の賜物であろう。