「もののあはれ」といふ言葉は人の生老病苦に基づくものであらうけれども、又、四季の変化、従つて天運地動、動植物の消滅、等から来るものである事も忘れることは出来ぬ。否、人間の老病死苦の問題はあまりに現実的である。これを天然の諸現象に託して詠ふときに「もののあはれ」は、優しく身につまされるものになる。
心なき身にも哀れは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮 西行法師
この思想は芭蕉が受継いでをるが、併しそれは客観性がつよくなつてきて、
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
の句となつてゐる。その底を流れる「もののあはれ」は共通である。歌と俳句の相違がそこにあることを忘れてはならぬ。
『虚子俳話』「もののあはれ」より
今宵は、もう一夜「蜘蛛」の句を紹介してみよう。
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脚ひらきつくして蜘蛛のさがりくる 京極杞陽 『京極杞陽句集 六の花』
(あしひらき つくしてくもの さがりくる) きょうごく・きよう
クモは、節足動物蜘蛛網で、足が4対、頭と胸が一つのかたまりになっている。蜘蛛の種類は多く、どれも糸を出すが、巣を張るとは限らないし巣の形もそれぞれである。
この蜘蛛は、細くて長い脚を思い切り開ききった格好で、糸でぶら下がり、ぶらーんぶらーんと枝から枝へ渡り歩くのであろう。蜘蛛は、その脚つきで、杞陽の目の前に卒然としてぶらさがってきたのであった。
脚の開き具合を「ひらきつくして」と、丁寧な客観描写をしたことで、ぴんと張った針金のごとき細い脚は、いやがうえにも気味悪さが強調されてくる。
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己が囲をゆすりて蜘蛛のいきどほり 皿井旭川
(おのがいを ゆすりてくもの いきどおり) さらい・きょくせん
己自身がつくった網の囲の上にやってきた闖入者は、獲物ではなく敵である虫なのか、あるいは同じ蜘蛛かもしれない。だが、ことわりもなく突然に己の囲にやってくるのは闖入者であることは間違いない。蜘蛛は、勢いをつけて網を踏んで揺すって、振り落とそうとしてる。この姿こそが、蜘蛛の「いきどおり」の姿なのですよ、となろうか。
幼い子が駄々をこねているような詠みぶりによって、この蜘蛛が、本当に怒っているんだということが伝わってくる。
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蜘蛛掃けば太鼓落して悲しけれ 高浜虚子
(くもはけば たいこおとして かなしけれ) たかはま・きょし
家の中や玄関口などに蜘蛛の巣があると、つい箒などで払ってしまう。虚子が掃いた蜘蛛は、太鼓であったという。
「太鼓」とは何だろうと調べてみると、孕んで卵嚢がふくれた蜘蛛のことをそう呼ぶのだという。また、その蜘蛛の姿が太鼓を背負っているようだというので、蜘蛛の太鼓ともいう。