第八百八十三夜 深見けん二の「青田」の句

 5月14日、北茨城の五浦の六角堂を見に、ドライブに連れていって頂いた。これまでは絶対に私が一人で運転していたほどであったのに、娘から運転の禁止を言い渡された。だがそのおかげで、窓からの景を楽しむことができた。道中の常磐自動車道からも友部で海岸よりの道にコースを変えてからも、植田から青田となって広がっている景が多かった。新緑のなか、青田のなかの、なんと心地よいドライブであったことか!
 
 この時、深見けん二先生の『折にふれて』の中に、虚子の「心の自由」という一文を見つけた。
 「心が全く空虚であったなら心鏡にものは映りません。我々が、むしゃくしゃして牡丹の花を見ておっても句は作れない。心を空しくするというのは、心を静めて他のいろいろな雑念に囚われないで牡丹の花に対する、ということです。」と。(略)
 虚子は、写生をする時に、目前の景色にのみとらわれないで、自分の情懐を深く自由に心の中に持っておれと言っている。心を静めるというのも一つには心の自由を得ることである。(『折にふれて』より)
 
 今宵は、「青田」の作品を見てみよう。

■1句目

  車の燈青田ひと舐めして過ぐる  深見けん二 『余光』
 (くるまのひ あおたひとなめ してすぐる) ふかみ・けんじ

 けん二先生は車の運転はなさらない。句会の後、近くの方が家まで先生を送ってゆくが、そうした時の光景かもしれない。あるいは、夜分に青田辺りを角を通りがかると、車がやってきて、先生の眼の前で車は青田の角を曲がった。
 その瞬間を、けん二先生は車の燈(ライト)と全く同じ目線となって、さらに運転手の視線ともなって、じつに丁寧に描写している。
 
 この作品は、「花鳥来」の句会に出句されていたと思う。結社「花鳥来」の初期の30年近く前のことなので朧な部分もあるが、私が、7句選に入れていたことは憶えている。当時、高浜虚子の客観写生を学び始めていた私にも、これが客観描写なのであろうと、はっきり伝わる作品であった。

■2句目

  青田にはあをき闇夜のありぬべし  平井照敏  芸林21世紀文庫『平井照敏句集』
 (あおたには あおきやみよの ありぬべし) ひらい・しょうびん

 仕事場のある東京と住処の茨城県取手市を往復していた頃、ハイウェイの常磐道を一つ手前で降りて、近道として、利根川沿いの農道を利用していた。かなり長い農道は稲田であった。東京育ちの私は、期せずして田んぼの一部始終をおよそ2年間の朝と晩に見つづけたのだ。知らなかった農作業があれば、農道の脇道に入って暫く眺めていた。
 
 掲句の光景も思い出す。農道は、広々とした田んぼの中の一本道であるが、青田の頃にはとくに夜も美しかった。青田には水が張られている。夜空が水に映っているのだ。
 
 空の闇夜と、青田に映っている空の闇夜という、2つの闇夜がある。夜の青田に映っているのは、私たちが見上げる夜空が真黒ではなく濃紺であるように、また作者の平井照敏氏が捉えたように、「あをき闇夜」なのであったにちがいない。