第八百八十七夜 高浜虚子の「髪洗ふ」の句

 わが家の玄関の大きな鉢に、ガーベラが咲きはじめた。花ひとつもよし、鉢いつぱいに咲くもよし。細い茎がすうっと伸び、ガーベラの花びらの一つ一つもほっそりとしている。花の色は真紅であるのに爽やかさを思うのは、花や茎のそうした細さであろう。
 
 細長いガラスの花瓶に、3本活けてみた。
 
 俳句をはじめた40年近く前に、句会で、「みほさんはガーベラのようなだね」と言ってくださったのはどなたであったか、好きな花ではあるが、人に喩える花としては意外であったので、しっかり脳裏に刻まれている。
 今年もガーベラの季節になった。ひょっと思い出して、どこが似ているのだろうか、また考えている。

 今日は五月晴れ。黒ラブ犬のノエルのシャンプーをしておこう。

 今宵は、高浜虚子の「髪洗ふ」の作品を見てみよう。

■1句目

  山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る  高浜虚子  『六百句』
 (やまかわに ひとりかみあらう かみぞしる) たかはま・きょし

 掲句に、かつて映画でこうした場面を見たことがあったように感じた。古い洋画であったが、森の奥の沼で、シャツを諸肌脱ぎにして上半身裸になった若い女人が水浴びをしている。長い豊かな巻き毛をほどいて髪を洗っている場面であった。
 
 また、日本の小説にも同じような場面があった。うら若い女人が水浴びをしている姿を旅人に見られてしまったという場面を読んだことがあった。見知らぬ人に知られてしまったことから結末は、おどろおどろしいものであった。この女人は鬼人であったかもしれない。
 
 虚子は下五を「神ぞ知る」とした。小説にあるような結末ではなく、山奥の川のせせらぎの中で髪を洗っている女人を、天の神様は必ず見ていて、木の葉の戦ぎとなって護っていますよ、という句意となるのではないだろうか。

■2句目

  喜びにつけ憂きにつけ髪洗ふ  高浜虚子 『五百五十句』
 (よろこびにつけ うきにつけ かみあらう) たかはま・きょし

 一日の終りにシャンプーすることは、今日のことは今日でお仕舞いにすること、私にとっての「髪洗ふ」は心のリセットの意味があると考えている。
 
 「喜びにつけ憂きにつけ」とは、まさにその通りである。「につけ」は、動作や心情が起こるきっかけとなる事柄を表す連語である。「喜びにつけ」は、喜びがあった時にはそれに関連した行動や心の動きがあるという意味になるし、「憂きにつけ」は、なにか嫌なことがあった時にはそれに関連した心も身体も動くことになる。
 
 掲句では、さらに動作として髪を洗うという行動が、喜びをあらわしたり、むしゃくしゃした気持ちを表すことになる、のではないだろうか。

 今宵は、高浜虚子の「髪洗ふ」の2作品を紹介させていただいた。
 
 なお、『虚子五句集』には、「髪洗ふ」の作品は8句ある。次に紹介させていただこう。
 
  泣きじやくりして髪洗ふ娘かな  『五百五十句』昭和13年
  喜びにつけ憂きにつけ髪洗ふ  『五百五十句』昭和13年
  山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る  『六百句』昭和16年
  肌脱いで髪洗はんとしたるとき  『六百句』昭和16年
  髪の先蛇の如くに洗ひをり  『六百五十句』昭和22年
  髪洗ふまなくひまなくある身かな  『六百五十句』昭和23年
  洗髪束ね小さき顔なりし  『七百五十句』昭和26年
  髪洗ふ女百態その一つ  『七百五十句』昭和30年 夏の稽古会