第八百八十九夜 深見けん二の「立葵」の句

 大腿骨頸部骨折から、もう2年半が過ぎようとしている。犬のノエルを連れて杖をついて、早朝の散歩と夜寝る前の散歩をしていたが、この春からは、それほど遠くではないファミリーマートまで犬を連れて歩いている。ファミリーマートで銀行の決済も出来ることを知ったからであるが、娘に頼まなくても自分の口座は自分で管理できるようになった。
 
 交差点を一つ横切って向こう側に行くと、ファミリーマートの駐車場横に空き地があって、今ちょうど、立葵が咲き出した。下から順に莟をつけ、咲きのぼって、花をつけてゆく。お洒落すぎない花であるところがいい。この秋には喜寿の77歳になる私には、「あなたも無事に咲いたのね。」という安心感がわいてくる。
 
 平成元年4月、練馬区光が丘のカルチャーセンターで深見けん二教室の俳句をはじめた私が、2ヶ月目に初めて、選んでもらえて、褒め言葉も頂いた作品が次の句であった。
 けん二先生は、第一回目も、下手な私の句を一句は採り上げてくださった。句は忘れてしまったが、目をまんまるにしたことを覚えている。
 
  きつぱりとこちらを向いて立葵  あらきみほ 『ガレの壺』平成元年

 やがて、先生の「花鳥来」が本格的にスタートした。新規入会者が入ると、必ず、一句を選んでいらした。その時になって私は、初めての句会で、選句されるという喜びを教えてくださっていたことを知った。

 今宵は、深見けん二の「葵(あおい)」の作品を見てゆこう。

■1句目

  髪を刈る鏡の中の立葵  深見けん二  『花鳥来』
 (かみをきる かがみのなかの たちあおい) ふかみ・けんじ

 もしかしたら、けん二先生の散髪は龍子奥様が整えていらしたのかしらと思っている。「花鳥来」の年末の集いや編集会議など、時折は先生宅で行われることがあった。確か広縁があって庭にお花が植えられていた。
 
 散髪の折には広い縁側に、鏡台を置いていたのであろう、鏡には庭の様子も映っていた。庭の緑を感じながら、風を感じながら、草花を見ながらの散髪は、さぞ心地よかったにちがいない。

 立葵の咲くのは初夏。鏡に映っている立葵の花は、どの辺りまで咲きのぼっていたのであろうか。奥様は、「こんな具合でいかがでしょうか?」と、鏡を覗きこめば、奥様にも立葵が見えたのではないかと思った。

■2句目

  鶏の塀にのぼりし葵かな  正岡子規 『新歳時記』平井照敏編
 (にわとりの へいにのぼりし あおいかな) まさおか・しき
 
 鶏は、かなりの塀の高さでも跳び越えることができる。庭に放された鶏がひょいと塀にのぼった。葵の花が見たくて塀にのぼったのではないのであろうが、とつぜん鶏の目の前に葵がすっと立ちあがったかのように、互いに向き合ってしまったのだ。
 
 鶏が塀にのぼったことで、偶然のように、鶏が葵の花の丈と同じ高さになってしまったという、小さな発見が面白さとなっている作品である。