第八百九十一夜 与謝蕪村の「花いばら」の句

 小学校に入るほんのすこし前、わが家は、葛飾区から杉並区に家を建てて住むようになった。庭が出来、早起きであり土いじりの好きな父は、せっせと花づくりに勤しんでいた。通りがかる人は、躑躅の垣根越しに父の庭を眺め、父がいる時には話し込んでいた。
 
 父の庭に花茨があったという記憶はない。花茨の思い出は、父とよく歩いて行った石神井公園である。石神井公園の道を隔てた向こう側の、三宝寺池の入口近くには小さな水辺があった。水辺には翡翠(カワセミ)が飛んでくるというので、カメラマンたちが大勢集まって、日がなカワセミを待っていた。カワセミは、鮮やかな水色の体と長いくちばしが特徴である。
 通りがかる人たちは、何だろうと立ち止まる。父がカワセミを待ちながら立ちつくしている間、私はくるっと回れ右して、花茨の垣を眺めていた。

 何日か経つと、小さな水辺には、やってくるカワセミのために、というか見物人のためにであろう、止まり木が造られた。ますます人だかりは大きくなっていった。

 今宵は、「野茨」「花茨」「花いばら」の作品を見てみよう。

■1句目

  愁ひつつ岡にのぼれば花いばら  与謝蕪村 
 (うれいつつ おかにのぼれば はないばら) よさ・ぶそん 

 明治元年の翌年に生まれた正岡子規が、俳句革新を試みたのは、江戸時代末期に盛んに行われていた月並俳句を、芭蕉や蕪村の頃の俳句へと変革することであった。月並俳句の「月並」は、元々は「毎月定期的に行う」という意味であったが、子規が新俳句を作ろうとして、江戸末期の俳句界を調べていくと、陳腐な句や点取俳句に満ちていた。
 新俳句の改革にあたり、子規が指標としたのが、松尾芭蕉ではなく与謝蕪村であったのだ。芭蕉俳句の良さを十分に知りつつも、子規の新俳句は、対象を客観的に眺め、具体的に対象を把握する画家の眼を持つ、蕪村俳句であった。
 
 掲句を見てみよう。「愁(うれい)」は、心を悩ませるとか嘆き悲しむという意味を持つ「憂い」を考えがちであるが、「愁い」と「憂い」とは少し異なる。似ている部分があるとしても、中年や老年の嘆息のようなものではなく、それは若さゆえの物思いに近いものであった。
 
 現代的に考えてみよう。恋をしてしまった15、6歳の少年は、その気持を少女に直接ぶつける術もわからず、どうしてよいのかわからない。少年は一気に岡を駆けのぼって行った。岡の上に見たのは青い空と白い花いばらであった。
 一枝手折ろうとして、可憐な花いばらに触れたとき、小さな棘が少年の指先に刺さった。薔薇のような大きな棘ではなかったが、花いばらには小さな棘がいっぱい付いていたのだ。
 
 初恋というのはそのようなものかもしれない。
 
■2句目

  茨さくや根岸の里の貸本屋  正岡子規 
 (いばらさくや ねぎしのさとの かしほんや) まさおか・しき

 根岸の里とは、正岡子規が晩年の8年間を過ごした、東京上野の山の北側の地である。子規の叔父の友人の、日本新聞社社長である陸羯南(くが・かつなん)の屋敷の隣に住んだ子規は、なにかにつけ面倒を見てもらっていた。
 
 陸羯南の日本新聞社では子規は連載を持ち、死の前日まで書きつづけた。
 
 掲句は、子規が全くの寝たきりになる前のことであろう。初夏の花いばらの咲く頃には、子規は自分で歩いて町内の根岸の里の貸本屋まで本を借りに行っていたのですよ、となろうか。

 今宵の2句は、『現代俳句歳時記』角川春樹編から紹介させていただいた。