第八百九十三夜 佐藤うた子の「草引く」の句

 もう70年近く前、小学校の低学年であった私たちは、給食が済むと午前中で授業はおしまいだった。道草をしながらお喋りをしながら、家に戻っても、また飛び出してゆき、同じ友だちと日が暮れるまで遊んでいた。
 
 一軒隣に、男ばかりの4人兄弟がいた。おばさんが、遊びにいらっしゃいというので、声がかかると、お隣のアッコちゃんと一緒に行ってはテレビを観せてもらっていた。一番下のお兄ちゃんがまだ大学受験前だったか、浪人中だったか、ミカンを食べながらテレビを観ていた記憶がある。テレビのある家は少なかった時代だから、テレビを観せてもらって嬉しかった。
 
 アッコちゃんと私は、暇な小学生だから、ふと思いついて、「ねえ、おばさん、庭の草取してあげるわ!」と、草むしりをしたことがあった。
 お正月が過ぎて、いよいよお兄ちゃんの受験シーズンとなると、テレビのお誘いはなくなった。それに、冬は草も生えないし、今思うと、草むしりのご褒美だったかもしれないが、楽しいテレビの時間であった。

 今宵は、「草取」「草むしり」の作品を見てみよう。

■1句目

  すぐ元の野になりたがる草を引く  佐藤うた子 『ホトトギス新歳時記』
 (すぐもとの のになりたがる くさをひく) さとう・うたこ

 昭和20年生まれの私は、ぎりぎりの戦後っ子である。杉並区立桃井第五小学校に入学した私たちは、4年生になる3月の終わりに、西武線を挟んだ北と南に分かれて、北側に住む私たちは、新設された杉並区立八成小学校へ行くことになった。
 昭和21年、22年には戦後生まれの後輩たちが増えたから、桃井第五小学校の生徒を分けなくてはならなくなったのだ。20年生まれの私たちは、4年生の最上級生となった。4年、5年、6年と、3学年を最上級生として過ごした。
 お別れの当日は、桃井第五小学校に登校し、そこでお別れ会をして、八成小学校組は、歩いて西武線の線路を渡って、引っ越しをした。3月末の畑が緑色であったことを覚えているのだが、麦畑だったかもしれない。
 
 引っ越しが済んでから、直に学校がはじまり、60数名の最上級生の授業がはじまった。4年、5年の頃は教室が窮屈なほどぎゅうぎゅう詰めであったが、久田先生の元で、心一つでみな仲良しであった。6年生になった時、2クラスに分かれることになった。
 新任の女性の芝崎春子先生である。私は、久田先生から捨てられたみたいにシュンとしていたのだろう! 卒業した後のクラス会でも、芝崎先生から「重石(しげいし旧姓)さんは、なかなか私になついてくれなかったわね。」とからかわれた。
 
 話が逸れてしまったが、掲句は、草取の本意を詠んでいる。

 草を引いても、しばらくすると又草が生えてきて、元の野にたちまち戻ってしまうのですよ、となろうか。
 
 新設校の校庭は、学校全員の場合も、体育の授業を潰しての場合もあったが、みんなで草むしりをした。一列に並んで、草とりをしながら前進してゆくのである。この地は、元は麦畑であったと思う。校庭は定期的に草むしりをしたこともあって、いつの間にか、生徒たちが駆け回ているうちに、地は固まり、雑草の生え方も少なくなってきた。
 「草むしり」の季語から、思いがけず遠い昔のことが蘇ってきた。

■2句目

  百人がちらばり御所の草を取る  高崎雨城 『ホトトギス新歳時記』
 (ひゃくにんが ちらばりごしょの くさをとる) たかさき・うじょう
 
 「御所」とは、在位中の天皇の平常時の住居のことであり、宮城(きゅうじょう)とも称される。
 
 掲句は、百人ほどの人たちが散らばって、宮城の内側の草を取っているところですよ、という句意になろうか。

 「御所の草を取る」という話は、長崎県島原市国見町の夫の実家の母から聞いたことがある。
 ある年のこと、婦人会会長をしていた母が言った。
 「御所の草取は毎年行われているけれど、日本中の全県、全市町村が回り持ちで順番に行われるの。今年は、長崎県の私たちが御所の草取の番なのよ。」
 
 このお役目を果たすことに、誇らしさを感じているようであった。