第八百九十四夜 小川芋銭の「五月雨」の句

 今宵は、茨城県牛久市生まれの、画家であり俳人である、小川芋銭の「五月雨」「五月闇」の作品2句と、22年前に取手に移転した直後の文章「牛久沼と虚子と芋銭」を紹介させていただこう。

1■俳句

 1句目

  五月雨や月夜に似たる沼明り 『芋銭子 俳句と書跡』昭和2年作 
 (さみだれや つきよににたる ぬまあかり) おがわ・うせん

 さて、小川芋銭の作品を紹介しよう。
 
 5月から6月、初夏の牛久沼である。牛久沼に雨が降っている。五月雨の作品だ。
 「五月雨」は、こうであろう。さみだれの「さ」は皐月の「さ」で陰暦五月を指し、「みだれ」は水垂れの意味であるという。陰暦五月に降る長雨、つまり梅雨のことである。五月の田植えの頃の雨のことである。
 
 「五月雨」の暗さは昼間でも感じることがある。だが空の日が沼面に映り、光が波一つ一つの側面にあたると、沼の波は鈍く輝きはじめるのだ。
 その鈍い輝きは、五月雨の降る小暗き昼間であるけれども、まるで月夜のような沼明りでしたよ、となるであろう。
  
 2句目
 
  とうふなめにばけるかつぱや五月闇 『芋銭子 俳句と書跡』明治33年作
 (とうふなめに ばけるかっぱや さつきやみ)
 
 「とうふなめ」とは、片手に豆腐を持った豆腐小僧という妖怪で、河童が化けているともいわれている。魑魅魍魎の世界が好きな芋銭らしい句で、五月雨(さみだれ)の降る頃の暗さの中に、いかにもありそうな景だ。

2■牛久沼と虚子と芋銭 

 昨年末、茨城県の取手市に越してきて広い大空に誘われるように、地図を見ながら、犬のオペラを車の後部座席に乗せて、牛久沼の名に惹かれるように出かけた。

 国道6号線を水戸方面へ八キロほど走ると左手に沼が開けて見えてくる。沼縁へ出たいのでもう少し行くと、「小川芋銭の河童の碑」と看板が出ている。
 小川芋銭! 『講談社大歳時記』の中で見たような気がする。「獺(かわうそ)魚を祭る」の季題の項に小川芋銭の絵「祭魚」があった。獺が釣り上げた魚を笹にいくつも刺している絵である。墨絵の薄靄の中の出来事のような雰囲気の絵は、牛久沼の景であると思った。

 だが、最初の頃は沼そのものに興味があったので、河童の碑も小川芋銭記念館もまだ見ていない。芋銭のアトリエも残されていると『るるぶ茨城版』にあったのだが。
 
 ある時、明治時代の「ホトトギス」を調べていたら、明治45年1月号「ホトトギス」に虚子の「河童の宿を訪ふの記」という文があった。また、「ホトトギス」の表紙絵は芋銭の河童の絵であったし、挿絵も芋銭のものが多く掲載されていた。
 
 「河童の宿を訪ふの記」に虚子は、芋銭と河童を次のように書き出している。

 (略)芋銭君と其書幅中に頻出して居る河童とを見比べつつ、余は私に嘆じて謂らく、「河童が芋銭か、芋銭が河童か。」と。更に「木精(すだま)」といふ一幅に逢着して、謂らく、「之を老木に登せば木精となり、之を古沼に沈めば河童となる。」と。其芋銭君を牛久沼の畔を訪はうと思って鎌倉を出たのは十二月十二日の午後二時五十分上野発平行の汽車に乗る。も一つ前の汽車に乗れぬ事も無かったのであるが、牛久沼、河童、芋銭の宿、などという連想から真昼間に着くことは何となく興が薄いように覚え、態(わざ)と薄暮同家に着く位の目算を立てて此汽車に乗ることにしたのである。

 芋銭宅に到着して、やがて酒を飲み河童の話となる。芋銭宅の縁から直ぐ見える沼は静かで、鎌倉では味わったことがない位の「沼の静かさ」をしみじみと味わっている。
 
 「何でも以前は沢山行列を作って沢っぷちを歩いてゐる事もあったさうです。知らん風をしてゐると別に人に害は加へなかつたさうですが、少し戯らをするか怖かしでもすると、忽ち多勢の河童が集まつて来て其人をくすぐつたり、なぐつたりして半死半生の目に逢わすことがあつたさうです。或動物学者などは、河童といふものはあるものだといふ事を言つて居るさうですね。・・・」
 芋銭君の是等の話には何処となく信仰が籠もってゐる。今夜にも河童は其辺を歩いてゐるやうな心持がしつゝ余も其話を聞く。
 「貴方の絵は牛久沼によつて養はれたやうなものですね。牛久沼を閑却して貴方の絵を解釈することは出来ないでせう。」
 (略)十一時が打つ。便所に行く時ちらと見た木の間の水は冥土(よみ)の国のものゝやうな沈んだ色を湛へてゐる。
 そして、翌朝。
(略)目に見た景色は昨夜とは変つて居るが死んだやうな静かな趣は少しも変りは無い。些細な物音迄が際立つて耳に響く。

 「此の汀の切株は何ですか。」
 「其は眞菰です。」
 「此処にも眞菰が出来るのですか。」
 「眞菰は沢山出来ます。」

 虚子の文は、こういう具合につづく。

 この虚子の芋銭を訪ねる小旅行から約九十年経て、虚子の旅と同じ十二月中頃に私も牛久沼に初めて出かけ、以来、この沼に夢中 になっている。沼をぐるりと囲むように眞菰原(虚子の文を読むまでは蘆原だと思っていた)が続き、更に廻り一面の枯田が続いているのである。昼間出かけたのであったが、丁度十二月の美しい冬夕焼の時期なので、夕景は燃えるようであろうと、四時頃に再び出かけた。

 息をのむように美しかった。本当に素晴らしかった。一面びっしりの枯れ色が真っ赤に染まったのであった。

 牛久沼は岬のような突端がある。そこは弘法大師が訪れた足跡があり、大師堂として祀られてある。其処から真正面に見る初日の出が素晴らしいというので、2000年元旦、朝四時に起きて、夫と犬のオペラと出かけた。夜が明ける前の薄紫にうっすらと桃色がかった何とも言えない色の空が、更にうっすらと靄がかかって美しくグラデーションとなった沼の空を見ながら、大師堂へと向かった。夜明けの沼面はべったりと鏡のようであった。鴨が三羽飛んでいたが、六羽のようであった。

 真夜中に風のないのっぺりとした沼面を見たら、虚子のように「冥土(よみ)の国」と思うであろうか。

 六時半を過ぎた頃、太陽は絵の具で描いたように真っ赤な円の一片を見せ始めた。身じろがぬまま、まあるくなるまで見据えていた。その全容を見せたとき、ほっとして回れ右をしようとしたら、隣のおじさんが声を掛けてくれた。

 「これからが本番ですよ」
 「えっ! 太陽はもう丸いのに・・・!」

 少し待ってみた。すると、赤い太陽はその影を沼面に映しはじめた。その真っ赤な影は筋となって、ずんずん沼面に伸びてくる。茎まで赤い一輪の薔薇のようであった。

 「有難うございました!」
 と、御礼を言ったら、おじさんはにこにこと笑っていた。

 こういう訳で、茨城県取手市に越してきて、先ずは沼にはまってしまったのである。

 今日の日曜日、小川芋銭を書こうと思って、過日素通りした「かっぱの碑」と小川芋銭記念館「雲魚亭」へ出かけた。沼縁から少し高くなった丘の上にあった。

 雲魚亭は芋銭の旧宅敷地内に建てた画室兼居室である。庭前の高い木々の向こうに沼波がかがやいて見えた。悪戯をした河童を懲らしめてくくりつけたという松の木もあった。
 雲魚亭は誰も居なかったが、入れるようになっていて、廊下をぐるりと廊下を向いて陳列棚があった。芋銭の写真を見て、アッと思った。沼のあやめ園にある河童の像に似ていた。

 虚子の文の冒頭の「河童が芋銭か、芋銭が河童か」が、甦った。