第八百九十五夜 川端茅舎の「朴散華」の句

 私の住んでいる守谷市守谷駅の、つくばエクスプレスの高架下に曹洞宗長龍寺がある。守谷駅の送迎にいく際に、国道294号線の信号待ちで必ずのように停まるので、すぐ脇にある長龍寺の裏門を眺めている。入口の梅の木は、春には手入れが良く、品の良い小ぶりの花が咲いていたが、近頃は、梅の木の剪定がされていない。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という言葉もあるが・・。赤信号の時に外から眺めるだけだが、梅の木だけでなく、庭全体が、人の手の入らぬままに茫々と茂っている様子が覗えるのが。ちょっと寂しい。
 初夏の今頃は、背の高い朴の木の天辺に朴の白い花が見える。20メートルもの高木であるという。

 今宵は、川端茅舎の「朴散華」の作品から「朴の花」を考えてみよう。

  朴散華即ちしれぬ行方かな  川端茅舎 『底本川端茅舎句集』
 (ほうさんげ すなわちしれぬ ゆくえかな) かわばた・ぼうしゃ

 昭和14年夏から16年春までの句が収まっている第3句集『白痴』は、亡くなる少し前に上梓されている。掲句の「朴散華」も、それ以降の作品と他誌に掲載された作品は『定本川端茅舎句集』に収められた。

 昭和15年1月以降は咳がひどく、喀血、呼吸困難などに苦しんではいたが、作句を怠ることはなかった。
 次のように、茅舎は病苦の自分を飄々と見えるほどに客観写生した。

  寒林を咳へうへうとかけめぐる    
  咳き込めば我火の玉のごとくなり 
  昇天の竜の如くに咳く時に 
  咳暑し茅舎小便又漏らす  
  まだ微熱つくつく法師もう黙れ 
 
 咳それ自体を生き物のように勝手に飛翔させている。煩悩即涅槃、苦悩そのものが茅舎が生きているという証なのだから、作句し続けられたのだ。一旦咳き込むと激しい咳は身体全体を揺すり、時には竜のようにのけ反り悶える。体温は身体が燃えるかのように熱く、寝間着もシーツも蒲団まで汗と熱気で濡れる。あまりの咳のために尿道が緩み自然に熱い尿が零れるという。

 次は、昭和16年の最晩年の作品である。
 
  我が魂のごとく朴咲き病よし
  朴の花白き心印青天に  
  朴散華即ちしれぬ行方かな 
  石枕してわれ蝉か泣き時雨 

 昭和6年に脊椎カリエスのため入院し、退院してからの茅舎の生活は、兄川端龍子の庇護のもとで殆ど病臥の日々であった。茅舎は、ベッドから窓越しに見える位置に大好きな朴の木を植えてもらっていた。
 3句目、「朴散華」は茅舎の造語である。散華とは仏を供養するために花をまき散らすことであり、本来は蓮の花をいう。
 この年、朴の木は8年目にして初めて白い花を付けたのだ。朴の木は高木だから、朴の花はちょうど見上げる空の位置に咲いていたことだろう。
 朴の花の白は、清らかな乳白色の、人の魂に触れるような優しい白。朴の木の、咲いては閉じる花の命は3日ほどで、落花はせず花の形のまま朴葉の上に朽ちて錆びるのだという。
 花の一部始終を見ていた茅舎に、ある日、ベッドの視界から花が消えていた。命を終えてしまったのだろうか。「即ちしれぬ行方」の朴の花は茅舎の姿かもしれない。

 『虚子俳話』の「朴散華」の項には次のように書かれている。

 「茅舎は自分の死を見た。
 茅舎の桐里の家の軒端に朴の木があつた。茅舎は朴の木の花の咲いては散るのを見てゐた。
 7月17日に没しているのである。
 仏書に親しんでゐた茅舎は「朴散華」といふ言葉を使つた。
 散った朴の木の花はどこへ行くであろう。それは遂に分らない。
 瞑目する自分はどこへ行くであろう。それは遂に分らない。
 茅舎は自分の死のことを言わず、朴散華のことを言つた。
 茅舎は自分の死を客観し、草木を諷詠した。(略)」

 闘病10年、昭和16年7月17日に自宅にて永眠。享年満44歳。「青露院茅舎居士」の戒名は兄龍子が付けた。
 虚子は、「示寂すといふ言葉あり朴散華」という弔句を詠んだ。「示寂」とは高僧や菩薩の入寂に用いる言葉である。

 川端茅舎は1897(明治30)年東京日本橋の生まれ。画家の川端龍子は12歳上の異母兄である。当初は医学を目指していた茅舎は、大正4年、進学を諦めて藤島武二絵画研究所に通いはじめる。後、岸田劉生に師事した。
 俳句は、大正3年頃から父の寿山堂に習い、大場白水郎の「藻の花」、飯田蛇笏の「雲母」、「ホトトギス」など数カ所へ投句。京都では東福寺正覚庵に寄寓し参禅もした。大震災後に京都に住んだ劉生や西島麦南らと、画業と共に句作にも精進、大正13年には「しぐるゝや僧も嗜む実母散」などの6句で、「ホトトギス」十一月号で初巻頭となる。
 しかし、昭和4年に茅舎は病弱となり、絵画の師劉生も亡くなった。失意のため画業はせず俳句に専念するようになる。昭和5年には「白露に阿吽の旭さしにけり」が巻頭。その後は他の俳誌への投句は止め「ホトトギス」一辺倒になる。昭和6年、脊椎カリエスで昭和医専に入院、秋桜子との出会いがあった。退院後は自宅で病臥生活をしていた。