第八百九十六夜 横山房子の「迎火」の句
『秀句三五〇選』シリーズでは巻ごとにテーマがある。このシリーズでは詩人であり俳人である大木あまり氏に、序文に代えて、一遍の詩を書いていただいた。紹介しよう。
死 大木あまり
通夜に行く 髪を洗う。
悲しいのに
画集を買った 人間はそれぞれの
ときのように 胸がときめく。 人生を演じ
あなたの死顔に逢えるから。 最後に死と言う
いつもあなたは 永遠のドラマを演じる。
出棺のときが 葛の花が雨に匂う夜こそ
生涯で一番輝かしい あなたの死にふさわしい。
儀式と言っていた。 エーゲ海の夕陽を
生は死の窓口。 見る約束は消えたけれど
あなたは私に
生きる力を与えてくれた。
今宵は、倉田紘文編『秀句三五〇選 6 死』より、「死」のテーマの作品を見てみようと思う。どの作品も倉田紘文先生が選ばれた句である。
このシリーズが決まり、6番目の「死」が紘文先生に決まり、引き受けてくださった時の気持ちが解説に書かれている。
「”死”・・なんと静かで激しいひびきをもつ語であろう。”死”・・なんと遠くて身近な思いをさせる語であろう。その「死」にむかって、私はこの数ヶ月間を過ごして来た。この『秀句三五〇選』で「死」のテーマと取り組んだ日からである。(略)」
今宵は、構文先生の見事な解説をそのまま紹介させていただいた。
■合掌―故人を弔う
迎火に少年幹のごと立てり 横山房子 『秀句三五〇選 6 死』
(むかえびに しょうねんみきの ごとたてり) よこやま・ふさこ
迎火は、盆入りの日の、7月13日または8月13日に行われることが多い。
少年期のその伸びやかな肢体を「幹のごと立てり」とは見事に言い据えたものだ。新鮮さと清潔さと、その率直さからいって、その幹は竹幹がいいかな、などと思ったりもしてみる。
「迎火」という古典的な季語を、この句は一気に俳句の中へと導いている。
【迎火・秋】
■南無―死観を詠う
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 正岡子規 『秀句三五〇選 6 死』
(へちまさいて たんのつまりし ほとけかな) まさおか・しき
子規のその身は痛みに痛み、苦しみに苦しんでこの世を去った。それなのに、その最期にあたってのこの一句の穏やかさはどうだ。なんとも立派ではないか。
法のことばの無財の七施の一つに「愛語施」がある。まわりの人になごやかでやさしい言葉で語りかける、の意。子規はその最期に臨んで自分自身に愛語を施したのである。【糸瓜の花・秋】
■時空―自然・動物・植物
1・冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城 『秀句三五〇選 6 死』
(ふゆばちの しにどころなく あるきけり) むらかみ・きじょう
このシリーズで「死」のテーマを拝命した時、先ず心に浮かんだのがこの句であった。「死」という語が出ているが、まだ「死」に至ったわけではない。それどころか必死に「生」をかかえて生きているのだ。
冬蜂はそのまま鬼城自身なのであろう。そしてさらに言えば、鬼城はまたそのまま私たちの誰ででもあるのだ。【冬蜂・冬】
2・滴りの二つとなれば一つ落つ 円仏美咲
(したたりの ふたつとなれば ひとつおつ) えんぶつ・みさき
地の深いところからにじみ出て、静かにひっそりと玉を結んではおちてゆく滴り。一つ一つが天の意に従ってのリズムを持ち、そのリズムに自らが乗って滴ってゆく。「二つとなれば一つ落つ」、この間隔、作者の心のうなずきがこの滴りの重みとも重なって、美しい響きを伝えてくれる。【滴り・夏】
■他郷―移民の人たちの生死観
今年また平凡ならん死なざれば 佐藤念腹 『秀句三五〇選 6 死』
(ことしまた へいぼんならん しなざれば)
昭和2年移民としてブラジルに渡り農業に従事。虚子に師事し、素十に兄事してブラジル俳句の今日を築いた人。
長い移民生活の苦しさを俳句によって支えて来た人だけあって、その思想は大らかである。下五の「死なざれば」には悠々たる悟覚があり、上五の「今年また」にはおおいなる達観がある。「去年今年(こぞことし)」を「今年」という場合もある。【今年・新年】