第八百九十七日 倉田紘文の「秋の灯」の句 

 倉田紘文の世界

 倉田紘文は大分県生まれの俳人。18歳より高野素十に師事、昭和47年、32歳で師素十に勧められて俳誌「蕗」を創刊主宰する。大分県別府市からの発行で、師素十亡き後の素十主宰の俳誌「芹」の会員たちも参加している、2000人という会員が皆平等、同人制はとっていない。

 師の高野素十は、その師虚子から「客観写生真骨董漢」と言われた人。 師素十の教えの「さあ、自然を詠おう」を、紘文は「さあ、また自然に学ぼう」と、「を」を「に」と言い換えてつぶやいた時、初めて紘文は、安堵の感を覚え、俳句を合点したという。

 『自句自解倉田紘文集』に、心打つ紘文氏の文章が書かれているので、引用させていただきながら好きな句々を挙げる。

  秋の灯にひらがなばかり母の文 『慈父悲母』(第一句集)
  秋の灯にひらがなばかり母へ文  々

 「芹」雑詠で初めて巻頭になった句。この頃の紘文は入院中であり、さらに五歳の子を亡くしたばかりであったという。母からの平仮名で書かれた手紙は、平仮名しか書けないのではない。・・大人であり、わが子である紘文を、子を亡くしたばかりの紘文を、慰めるようにあやすように「ひらがな」で認めた母の文であったのだ。
 2句は、母からの短い手紙と母への返事である。「平仮名で書く母の文、それは全く悲母という言葉にふさわしいのである。あるものは只母と子との愛とその姿とだけである。この句々はそんな美しい感銘がある」

  蕗の葉の大きくなりて重なりし

 「風の中の広葉は生きとし生けるものの歓びの揺らぎであり、或るものはまたしおれた哀しみの顔であり、そしてそれは、時として決心の姿で立ち上がる。」
 この紘文氏の言葉は、写生句を作るとき写生句を鑑賞するときの指針となる。俳句初心の頃、「俳句は、主観そのままの言葉で作ってはいけません。花や鳥や物に託して表現するのです。」と、教えられたが、いざ、俳句を作ろうと思っても、どうしていいのか分からなくて困った。俳句を始めて10年が過ぎ、四季折々の自然を繰り返し見ている中に、思いを託せる様相があることに気づきはじめた。

 そして句を作ることと鑑賞できることが、両輪の如くあることにも気づきはじめた。

  一枚の梅雨の瓦の雨跳ねる
  爽やかに一俳論に従ひぬ

 「写生俳句は、どう進歩してゆくのでしょうか」
 「分かりません。でも、これまでの足跡は分かります」
 「と言いますと?」
 「子規は『写生』と言う言葉を多用しました。それを受けた虚子は『客観写生』として、それを指導上の標語にしました」
 「なるほど。『客観』の二字を付け加えたわけですね」
 「そうです」
 「それからどうなりましたか」
 「素十は虚子の語に更に『純客観写生』と『純』の一字をくわえました」
 「純客観写生』ですね。写生に徹するということですね。ではこれからはどうなるのでしょうか」
 「そうですね。それをこれから実践を通して探してゆこうではありませんか。『純』の一字を大切にしながら・・」

 紘文氏の俳句への決心の言葉である。

  末枯れの道のゆきつくところなし
  末枯れの道のときどきとぎれがち
  吹く風に顔を上げたる捨蚕かな
  今日もまたぺんぺん草の句を作る

 「自然は絶えずわれわれと語るが、その神秘をうちあけはしない」というゲーテの言葉のように、自然は汲めども尽きぬ底知れぬ深さのあるものであると、紘文氏は言いたいのである。

  いつまでも同じところに春日かな

 「衣を着せずに申し上げます。俳句が下手になった様な感じを受けます。しっかりして下さい。素十」
 ある時、紘文氏は師素十より、このような手紙を受け取った。師素十も紘文氏も凄い!

 次号の俳誌「芹」では、紘文氏は巻頭となった。師素十からの手紙文を恥じることなく、隠すことなく、紘文は、句集に載せ、俳誌に載せたのだ。生涯、この師の言葉を作句上の指針としているのであろう。羨ましいほどの師弟関係であると思う。

  渦二百渦三百の春の潮
  柿赤くもののをはりは美しき

『光陰』(第二句集)より

  摘草の遠くの人のゐずなりぬ
  墓ここに時の流れの涼しけれ

 「俳句には相撲と違い横綱などはない。まして取り組んで勝負を決するというようなものではなく、自分と自分の心との闘いである。が、しいて相手をあげようとすれば、それは春夏秋冬の季を以て泰然と我々の前にある大自然ということになるかも知れない。 そして泰然自若たるこの大自然とともに四つに渡り合うことが、俳句における写生道かとも思う。素朴に、誠実に、そして謙虚に。 自然との深い対峙から逃げて、小手先の小主観に流れてはいけない。」

  螢待つ闇を大きく闇つつむ
  みち小春なれば小春のみちづれに
  
『無量』(第三句集)より

  み佛に少し離れてゐて涼し
  秋の波同じところに来て崩る

『帰郷』(第四句集)より

  素十忌のひと日素直に過ごしけり
  ものの芽の母にほぐるる帰郷かな

『都忘れ』(第五句集)より

 一ページ一句だての贅沢な空間から、省略しきった平明すぎるほどの、言葉の芯のようなものが、じゅわっと心に染みる、紘文氏の第五句集『都忘れ』である。
 あとがきに、次の言葉があった。
 「都忘れ」・・それは祈りのようなひそかなつぶやきです。

 好きな句を鑑賞してみた。

  ひとつぶの露千万の露の中
  月明かり月暗がりも後の月
  大粒になるまで待ちて滴れる

 1句目、一粒の露の輝きから、露万朶の真っ只中に居ることに気づくことがある。露たちは宝石箱から転がりでたようにキーンとした音と共に輝きはじめ、陽や風の中で、さながら、ガラスの楽器のシンフォニーとなる。
 2句目、「月暗がり」と、陰を詠んだことで、冷たく澄んだ空気が見え、「後の月」が一層煌々としてくる。
 3句目、膨らんでいく「滴り」、音を立てて落ちる「滴り」を、繰り返し眼前に見ているようである。自然に対峙する者に、自然は時に、ご褒美のように、素晴らしい美を見せてくれる。

  美しきいのちがひとつ夕端居

 暑かった夏の一日が終り、茜色の縁側にいる後ろ姿は、夕べの涼しさにやすらぎのシルエットを見せている。父、母、猫一匹でもよい、誰とは言わず「一つの命」の存在を「有り難い」「愛おしい」と感じているのだ。紘文氏は「美しい」という言葉をしばしば使うが、大自然の中での生きとし生けるものの営みや、ささやかな消息を「美しい」と思い、そう表現せずにはいられないのである。身近な「死」、幾度かの「病」を経たとき、悲しみは「生」「命」への愛おしさになるのだろうか。

 二句連句は、どの紘文句集にも見られ、師素十にもこの二句連句はある。だが、心や動きの変化、時間の経過からドラマまで感じさせる、紘文氏特有の世界を形作っている。

  降つてくるものを涼しく見てをりぬ
  どんぐりころころふるさとに帰り来し

 1句目、「雨」と言わず「降ってくるもの」という言葉の集まりが、待ちに待った「酷暑」の中の涼しさを、雨の音を、楽しんでいるようである。 2句目、「どんぐりころころ」は童謡の歌詞ではなく、故郷へ行ったとき、どんぐり一つが転がってきたのだ。帰郷はこんなことに感じるものかも知れない。

 自己を凝視しきった「主観」に上・下はあろう筈はないが、それでも俳句という十七文字の中で表現できる「主観」を考えたとき、写生を進めた中から生まれた「主観」、自然を詠むことによって「主観」の滲み出た句は、人の心をなんと大きく温かく灯す力があるのだろうかと思った。

 このブログの筆者も大分県の出身。お亡くなりになった時には奥様からご連絡を頂いたが、参列は叶わなかった。九州長崎へ帰郷の折には墓前にお参りさせていただく覚悟である。